あっという間の遠回り人生 5
母の腰の手術後の状態も良く、想像以上に回復が早かったので、私は何か専門的な知識や技術を身につけることを考えるようになりました。
ハローワークでWebデザイン関係の職業訓練を探しましたが、少し遠方で交通費が自己負担だったので、断念しました。
せめて、この時に無理してでもその方向へ進んでいたら良かったのですが…。
ここから約3年ほどの間、私はますますどんどん迷走していきました。
一体、自分は何がしたい???
コンピュータ関係の仕事ができたら、と思い、コンピュータ学校のパンフレットを取り寄せたりしましたが、受講料の金額を見て諦めました。
既に長男が就職して家を出たとはいえ、その時は、次男が専門学校、三男が高校生だったので、まだまだお金が必要だったのです。
単純にAutoCADが使えるようになりたくて、職業訓練校(職業能力開発促進センター:ポリテクセンター)で半年間の機械設計コースを受講することにしました。CADが使えると、仕事の幅が広がるだろう、と甘い考えを持ったのです。
私が受講する時は入校希望者が多く、筆記試験や面接で落ちる人もいました。
私は無事に合格しました。
右眼が白内障で少し見えにくくなっていたので、講座が始まる数日前に、右眼だけ手術しました。その日しか手術の予約が取れなかったんです。
この時、生まれて初めてシャンプーキャップを試したのですが、結局ほとんど使いませんでした。2回ほど活躍したでしょうか?(笑)
夏場だったんで、顔や髪が洗えないのが辛かったんです。
職業訓練校の入稿日前日には、美容院でキレイにシャンプーしてもらいました。初っ端から臭いまま行くのは避けたかったんで…。
金属切削やAutoCADの操作自体はとても楽しかったです。
でも、NC旋盤の授業でサインコサイン出てきた時点で頭が思考停止(泣)
CAMの授業の頃はもうチンプンカンプンでした(爆)
本当に全くのパソコン未経験の人が数人いたので、講師の先生に、
「ごめんけど、ちょっとあっちのコ、教えてあげて」
と言われて、パソコン操作の指導を少しお手伝いをしたこともありました。
教えることが楽しくて、自分は本当にコンピュータの操作が好きなんだなぁ、と再認識しました。
パソコン初心者の人のために、軽くMicrosoft Officeの授業もありましたが、私が設計で座標の計算の仕方がわからなかったように、全然パソコンを触ったことない人は、授業で1回やったくらいじゃ難しいだろうな、と感じました。
受講生の中には機械切削やCADの経験者も多く、みんな親切に教えてくれました。
和気あいあいとして、お弁当を一緒に食べるメンバーも日々増えていきました。
後ろの席から黒板の字が見にくいからと、私を含む数人がAmazonで単眼鏡を買いました。授業中、お互い貸し合いっこして、
「わぁ、何これ、すげぇ!」
などと喜んだりもしました(笑)
学習したこと全てを身につけることは難しかったけれど、形あるデザインの見方が変わっていった貴重な時間だったと思います。
右手にアーク溶接機、左手に溶接面
職業訓練修了から2か月後、やっとの思いで、コンクリートの型枠を製造している鉄工所に正社員の設計兼営業として就職しました。
ですが、現物を知らないと設計はできない、ということで、工場で作業をすることになりました。
工場では、高さ5mくらいの大きな型枠が組み立てられることもありました。
座学の研修を受けながら、工場の中で鉄鋼にドリルで穴を開けたり、溶接したり、グラインダーで研磨したりして、部品を作れるようになりました。
職業訓練校で、汎用旋盤やフライス盤を経験していて良かったと思います。
仕事自体は面白かったのですが、重い物を抱えたり、体力的にきついことも少なくありませんでした。
朝起きた時、しばらく指が動かなくなったり、指の関節がカクンとなったり、両肘が強烈に痛むようになりました。
あと1年はその作業を続けて欲しい、と会社側から言われたものの、整形外科の先生からは仕事を辞めるように言われ、半年で退職しました。
溶接で眼鏡のレンズが傷だらけになったので、退職後、レンズだけ作り直しました。
結局また事務職に戻ったけれど…
もうその時は、既に52歳になっていました。
なりふり構わず就職した先は、あまり多くは語れませんが、とんでもない建設会社でした。
一応正社員の事務でしたが、その会社に関わっていることが怖くなり、9カ月ほどで辞めました。
お人好しにも、私が退職した翌々月に次の人が正式に入社するまで、自宅で仕事のマニュアル作成をして、ボランティアで会社のパソコン上の帳簿を入力しました。アホやなぁ、と自分でも思います。
それまで色んな会社を転々としてきましたが、初めて「自分が辞めた後でもより一層いい会社になって欲しい」というような「愛社精神」を持てなかった職場でありました。
悲しい一般就労(?)エピローグ
建設会社を辞めた時には、もう53歳。
無謀にも、やったことがない歯科医院の正社員の受付事務にチャレンジしました。
ハローワークの方が求人票を確認して、ここはよく(入った人が辞めて)人が変わるみたい……とちょっと気にされたけど、
「私の立場でホントはこんなこと言っちゃいけないけど、合わなかったらすぐ辞めちゃえばいいのよ!当たって砕けちゃえ!」
と仰ってくださいました(笑)
53歳で正社員として雇ってくれる職場なんてそうありません。
私も長時間労働は覚悟の上でした。
だけど、実際にやってみると、ほとんど1人で受付、カルテの準備、患者さんの案内、精算、電話の応対をするのは、私にとってはとても大変な事でした。
遅い時間に患者さんを受け付けると、スタッフに睨まれることもありました。その分、帰るのが遅くなるからです。
でも、先生は、
「歯が痛いのを一晩我慢するのって、どんなに苦しいと思う?」
「誰が何と言おうと、そんな電話があったら、僕に必ず取り次いでね!」
と仰るので、先生とスタッフの意見の板挟みになっていました。
特に、患者さんの次の予定を決めるのが難しい!
それぞれの治療に掛かる時間を考慮して、上手く割り振りしなければならないのです。何度も失敗して、スタッフの人に怒られました。
「ちゃんと基本的な歯の治療の流れを覚えてね!」
と、一部のスタッフ達から要求されました。
用語や治療の流れを知ってることに越したことはありません。
勉強したい、とも思いました。
現実は、掃除のために朝の8時過ぎに出勤して、昼休みもカルテの整理をして、夜は家に帰り着くのが21時前後になる生活。休みの日はぐったりしていました。
家のこともあるのに、とても勉強する気力などありませんでした。
思い悩んで先生に相談しました。すると、まず歯の治療はみんな一緒じゃないし、あくまでもあなたは受付事務なのだから、そこまで要求していない、と仰ってくださいました。
それに、患者の次の予約を決めるのは、本来、実際に治療に立ち会った歯科助手の仕事でもあるのです。
いずれにせよ、「先生にチクった」ということで、一部のスタッフとの間に亀裂もできて、職場に居辛くなりました。
それ以上に、長時間職場に拘束される生活にも嫌気がさしていました。
「もっと優秀な人が入った方が、みんなのためにもいいじゃん!」
もう辞める!と決めてからは、気持ちがすごく軽くなりました。
歯科医院を辞める直前のことです。
医療用の固いポリ容器を足で潰していたのですが、自分の全体重で潰そうと、思い切って両足で跳び上がり、ポリ容器の上に着地しようとしました。
当然、コントのように見事に滑って倒れました。ギャグみたいだと、みんなに大笑いされました。
「喜んでいただけたでしょうか?」
などとボケながらも、あまりに痛むので、病院へ行きました。
すると、左手首をCTスキャンで診ないとわからないくらいキレイに縦にピシーッと折れてました(笑)
3か月でのスピード退職の負い目から、労災申請することもなく、笑いを提供したまま(?)その歯科医院を去りました。
それまでの職場や様々な場で、仲間にものすごく恵まれていたことを思い知らされた職場でもありました。もちろんその歯科医院でも、とても親切にしてくださった先輩方もいらっしゃいました。短期間で退職することが、先輩方に恩を仇で返すような裏切りのようで、心苦しくもありました。
無駄な経験だったとは思いませんが、苦い思いが強く残りました。
在宅ワークを考えたきっかけ
2021年3月。世の中は新型コロナ騒動真っ只中で、私自身も離職して再就職活動が上手くいってませんでした。
在宅ワークを考え始めていた頃に、「ぬるま湯デザイン塾」のセミナーの案内広告が目に飛び込んできました。
セミナーを受け、形だけの作り方を教えるスクールではない、と確信して、ここで学びたい、と思いました。
失業してお金のない時期でもあったので、受講料は分割払いにしていただきました。それが出来なかったら、断念していたかもしれません。
主婦業もしながら、フルタイムで朝から夜遅くまで外へ働きへ出るのは大変です。
多くの人々がやっていることではありますが、みんな偉いと思います。
私は「もう嫌だな」と思うほど心身共に疲れきってました。
同居している高齢の母も、同年代の人よりも元気とはいえ、日に日に老いを感じるようになっていました。
家で仕事ができたらいいな、と思っていた矢先のことでした。
半世紀過ぎての決心 ~ 好きなことをやって生きていこう
50代半ばになってのフリーランスへのチャレンジ。
Webデザインのオンラインスクールの講座を受ける決めたのと同時に本業にする決心をしていました。
ずっと本格的に勉強したいと思っていたのです。
同年代の友人の中には、ものすごく否定的なことを言う人もいました。
でも、50代半ばにもなったからこそ、
「私の人生、このまま終わっていいのか」
という気にもなったのです。
もう自分の好きなことをやって生きていきたい、そう思いました。
この仕事を始めるまで、職を転々としました。
最後の方では、履歴書の職歴欄に全部書き込めないほどでした。
しかも高卒なのに、40代半ばから50代になっても、ずっと正社員として雇用してもらえたのは、本当に運が良かったと思います。
様々な業種の企業で、本当に色々な職種を事務職を中心に携わらせていただきました。
毎回、全力疾走しては、身体を壊してぶっ倒れることの繰り返しでした。
特に事務職では、前任者が残した問題を改善・解決した後に退職するパターンが、独身時代から多かったです。
自画自賛ですが(笑)、よくやったな、と自負しています。
もちろん失敗も数多くありました。
全ての経験は私の財産です。
全然後悔がないと言うと大嘘になりますが、随分遠回りはしたけれど、無駄ではなかったと思います。
また、どんな環境にあっても、私は優しく温かい心を持ったいい仲間に恵まれてきたことに感謝しています。
仲間の助けがなければ、本当に今日の私はありません。
私も僅かでも誰かの助けになることができていれば嬉しいです。
市のテレワーカーのコミュニティ「なでしこまむ鳥栖」にもご縁いただき、それぞれに素敵で素晴らしい能力を持つ愉快な仲間達に囲まれています。
お互いいい刺激を与え合いながら、共に次々と新しいことにチャレンジしています。
ぐじけそうになる時も、仲間が励ましてくれるので、また気持ちを切り替えて頑張ることができます。
全ての仲間達に本当に心から感謝しております。
みんな、ありがとう!
還暦まであと3年半。
まだまだ夢へ向かって突き進んでいきます。
(やっと終わり)