本と私・読者好きと言えるまで
プロフィールに載せていることを少しずつ書いていこうと思っている。
今回は「読書」
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どのくらい読む人を読書家というのかわからないけれど、学生時代までの私は少なくとも読書家とは思っていなかった。
にも関わらず図書室という空間が好きで、高校生の頃は放課後になると図書室に通っていた。
図書カウンターからほど遠い机に友達と陣取る。
図書室は静かに過ごしましょう、とは暗黙のルール。
もちろん静かにしますとも。
ノートを広げて文字で会話。それを読みながら友達と声を潜めて「ひひひ」と笑いあっていた。今 思うと気持ち悪い。
そう、図書室へ通いながらも、そこで読書や勉強はしていなかった。
本に囲まれた空間が心地よくて、ただ居座っていただけ。
それでもタイトルや表紙が気になって選んで借りた本や家にあった母の本など、本を手にする機会は身近にあり、家で読書をすることは、多くはないけれど確かにあった。
看護学生になると村上春樹や片岡義男にはまった時期がある。それでも月に読むペースは変わらなかった。せいぜい1、2冊。
寮の同室の先輩にりえちゃん本が好きなんだね、と言われてもピンとこず、そうでもないですよ、と答えていた。
本が好きなんて人はジャンルを問わず四六時中読んで、本について語れる何かがある人だと思っていて、私には程遠い存在に感じていたのだ。
母になり、シングルになり、本が贅沢品に思えていた時期がある。娘が欲しい本は買っても、自分のためのものは後回しとなり、なかなか手が出なかった。しかし何か読み物がほしくてふらりと本屋に立ち寄っては、文庫本を買っていた。贅沢品だから月に数冊買うか買わないか程度。
本好きならこんな感覚にもならないのだろうと私は感じていた。
その頃、図書館という存在を忘れていた。
その後、近くにブックオフが出来た。
図書館へ通うようになり、ああ私この空間が好きだったと思い出す。
大人の私は友達と座って「ひひひ」と笑うこともなく、ちゃんと本を数冊ずつ借りるようになった。
2週間で返却。
それを繰り返していると月に5から8冊、年にそれなりの本を読める。
読んだ後でも気に行った本は購入するようになり、ブックオフも活用し、積ん読本もできていった。
ようやく自分のために本を買うようになった時期。
それより少し前、次女が中学生のときに、親が本をよく読む人で良かったと言われたことがある。自分のために本を買うのをためらっている人間なのにと驚いた。
それまで人がどのくらい本を読むかなんてあまり考えたことがなかったので、娘に聞くと、いや多いでしょ、と一蹴された。娘の本まで読んでるし、と。
そう、あの頃、娘に買った本も私は一緒に読んでいたのだった。
次女は小さい頃から本好きだ。
部屋を本で埋めつくしたいとか、本屋に住みたいとよく言っていた。私はそんな風に思ったことがない。
新年度に持ってきた国語の教科書を、先に全部読みきってしまうような子だったし、その後の大学も文学部で、夜間の講義にも参加し司書資格もとった。サークルも文芸。大人になり自ら購入するようになった娘の本棚には、もう手が出せない。近代文学に限らず時代もジャンルも越えて幅広く何でも読む。自他ともに認める「趣味、読書」ってやつだ。
その娘が言うのだから、娘にはほど遠くても私もそれなりにそうなのかな、と次第に思うようにはなった。
思えば私の母は本だけは買う人だった。普通の本以外にも百科事典のセットだとか、世界名作全集だとか、全集ものをダダーンと揃えて購入し家の本棚には本が多量に並べられていた。その本を姉や弟は全部読んでいたのだろうか。
少なくとも私は全部読んではいない。ただ、読め、とも言われた記憶もない。ただ家には多量の本があった、それだけ。
飾りものだったような気もする。
母はあの本を読んだのだろうか。
樺太に置いてこられるはずの子どもだった、と話す母の実家は酪農で家の手伝いばかりさせられたとよく話していた。学生のころ本をよみたくても、勉強したくても、もったいないと電気はつけてもらえず月明かりで内緒で本を読んだそうだ。そんな時代の母。
その反動があの多量の本に繋がったのだと思っている。たぶん、飾りものだった。
ただ、読みたい時に手の届くところに本はあったのだ、と今になって感謝する。
たまに実家に帰ると母の本棚には今も新刊が並んでいたりする。これ読みたかった、と私や次女が拝借することもある。私も本を読む親に育てられたのだなと感じる。
思えば私が出産後、いち早く絵本を買ってきたのも母だった。
無意識のうちに刻み込まれた読書という感覚。
今はまたペースダウンはしているが、どんなに忙しくてもリビングのテーブル、枕元、通勤バッグの中、どこかに本があると安心する。
私は好んで小説を読む。純文学が多い。自己啓発本などはほとんど読まない。物語の中から漏れでてくる感情をすくって、そこから考えるのが好きだから。
物語が絡むことで、私には、情景を目にし心を震わせ深く残りやすいものとなっていく。
今思えばあの並んでいた世界名作全集はちらちら見たりしていても、百科事典はほとんど手にとることすらなかった。やはりお話が好きなのだ。
たったひとつの文章が、自分の想いとピタリとあったとき、その本は心に残るものとなる。ある本を読んだとき、心にストンとはまった瞬間があった。
何年経っても私の中にある大切な一文。
角田光代さんは、私が崇拝する作家のひとりであるけれど、彼女が生みだす物語はもちろん、その中に描かれる心の機微の表現にいつもハッとさせられる。
その角田光代さんの「さがしもの」の中に
私の読書の意図を代弁している一文がある。
ちなみに、この本は
本がからむ短編が9編収められている。
物語自体は、たわいもなく過ぎていく日常なのだけれど、その日常の中で、もしくはちょっとした偶然やふとした奇跡の中で、必ず本が存在する物語になっている。そしてそれぞれに、本との関わり方や本への想いが、ストンと私の心情に嵌まる言葉で表現されている。
本を読むことは世界を広げるとか別のことを知るとかよく言われるが「さがしもの」の表現はこうだ。
最後のあとがきエッセイでの著者の言葉。
そう、私も、心の色を一色ずつ増やし彩り豊かにしていきたい。
それが私の中の読書という存在だ。
多くの色を感じて心豊かに日々を過ごしたいから、私は生活の中で本を読み続けるのだろう。
沢山読むときも、日に数ページの時もある。語れることもあまりない。
そんな私でも、大人になり読書好きなんて自称でいいのだと思えるようになった。何を頑なに考えていたのか。我ながら長い道のりだった。