スクランブル交差点
ある晴れた春の朝、まだ肌寒くてコートと手袋を着て家を出た。しかし最寄りの駅まできてみると、見かける人の中には、Tシャツ短パンの人もいる。なんならノースリーブにビーサンの人もいる(平日です)。
韓国人が経営するお洒落なカフェに入ると、私が韓国人に見えたのかアニョハセヨと挨拶され、隣に座った白人の女性から「わたし日本語の勉強しているんだけど、もしかして日本人ですか?」と突然声をかけられる。ちなみにこの時私は、別サイドの隣から聞こえてくる広東語をどれくらい理解できるか聞き耳を立てていたので、文字通り飛び上がった。
こういう場面に遭遇するたびに―しょっちゅう遭遇するのだが―シドニーは交差点みたいな街だな、と思う。スクランブル交差点。人種、ルール、言語、常識、が全てごちゃ混ぜになって、みんな我が道を行っている。「とりあえず、周りにあわせて」と出来ないのは、時々困るけど、とっても自由だと。
自分の行く道がしっかり見えている人には、周りの人にぶつからないように進むのみ。みんな好き勝手に我が道をいくのだから、あまり後ろ指を差してくる人はいない。
自分の行く道が分かっていない人には合わせるモノがなくて少ししんどいかもしれないが、他人に合わせないとしたら自分は何がしたいのか、考える良い機会になると思う。進みたい方向が決まったら、この街で暮らすのはとっても気が楽だ。
日本人は目的をもって暮らしていないようだ、とこの間乗ったUbarの運転手から言われた。アニメも好きだし、日本観光はとても楽しかったけど、仕事はあそこではしたくない、日本人はみんな目的なく生きている、と。その後その運転手は自分の生きる目的についてとうとうと語りだし、ほほぅと思った覚えがある。
目的なんかなくてもいいじゃない、と思う一方で、目的をもって進めたら楽しいのに、とも思う。だってここはスクランブル交差点のような街で、いつまでも立ち尽くしているにはもったいないから。
そんな事を、オペラハウスのバレエ鑑賞の小休憩中に、ロビーに集まった人々を見ながら思ったのでした。