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考えすぎて動けなくなったら、一年前の今日を思い出す

情報収集のためにニュースやSNSを追う毎日。東京の未来になるかもしれない環境で耐えている人たちが、必死でよびかける声。自分か自分の愛する人に、近い未来に訪れるかもしれない何通りものシナリオ。

「医療崩壊する前に帰ってきなさい」「絶対田舎の親のところには帰るな」「動けるうちに動け」「動くな、封鎖するぞ」

ふと気がつくと、自分が考えても仕方がないところまで想像力を巡らせて、必要以上にイライラし、不安になる。分かっていても、SNSを繰る手が止まらない。

「考えすぎてるな、頭と心が疲れているな」と気づいた時は、1年前の今日を思い出すと、無意識にもの凄く強ばっていた肩の力が、すこし抜ける。

それはたぶん、苦しいな、つらいなと思っている「今ここ」「この現場」「この悩み」から、心理的にすこし離れることが出来るからだと思う。

1年前の今日、私はオーストラリアから日本へ飛ぶ飛行機の中にいた。隣の席の人にドン引きされながら、元カレから渡されたプレゼントと手紙を胸に号泣しながら。

新しい土地で自分の力を試してみたい、ということが本当はどういうことなのか、体と心がまだ追いついていなかった時期。

生まれ育った東北でもない、家族がいる北海道でもない、二度出張で来ただけの馴染みのない土地、東京。路線の複雑さと人の多さに恐れおののき、池袋駅で1時間迷って半泣きになってしまった。と同時に予測がまったくつかない新しい生活にワクワクしていた。

最初は泣いてばかりいた東京での新生活。だけど日々を重ねるごとに、池袋駅で人混みをよけながら目的地をめざせるようになり、シェアハウスで音楽を愛する住人と好き放題奏で、さらには胸に抱いていた元カレのプレゼントもメルカリで次の所有者の元へ旅立った。

さらには1年前の私が全く想像できないことも起こった。世界的パンデミックが起こり、これまでの価値観がガラガラと崩壊する。この先の予定も、まだ全くの未定だなんて。

1年後の予測がつかないのは当たり前。自分のコントロール外のことが多くて気が滅入る時、悪い記憶やものばかり思い出すのも当然だ。

でも、本当にそうだった?そんな悪いことばかりだった?坂道を転がるような思考を止めるため、iPhoneの写真をさかのぼって一年間前どこにいたのか、日記や手帳をめくって1年前の今日、何をしていたのか思い出す。

どんな日だったのか、誰に会い、どこに行ったのか、どんな気持ちだったのか。その日、今日という日が来て、どんな気持ちで、今経っている場所にいることを想像できたかどうか。写真の中にいる笑顔の私は教えてくれる「楽しい日々を、ちゃんと過ごしていたよ」と。

1年前の私から見ると、今の私は想像もつかない場所に立っている。

過去と未来を見通すと、自分を取り巻く「時間」と「環境」がびよーんと広がって、少し息がしやすくなる。

もしかして今できないことが、1年後はできるようになっているかも。こうして出来たのだから。

過去の辛さも、プルプルと身震いしながらも受け入れられている自分がいる。とすれば…、きっと。今心の底から私を苦しめている悩みも、1年後には「いやぁあれは大変だった」と振り返ることができている可能性が高いのではないか。

来年の今日、どこでなにをして、この先1年でどんなことがあるだろうか。もしかしたら、今は想像できないほど嬉しいことがあるかもしれない。逆にとてつもなく悲しいことがあるかもしれない。

だからこそ、視界をすこし広げて、息を吸う時間が必要なのだ。

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