終戦二日前のできごと
【終戦二日前のできごと】
1945年8月13日 その日も朝から暑い日でした。
祖父は,佐倉の連隊にいくために,自転車で成東駅に行きました。
すると,駅長さんが,
「朝から空襲警報が出ていて,列車を動かすことができません。
解除になったら,汽笛を鳴らしますから,それから駅にいらっしゃい。」
と声をかけてくれました。
家に帰り,井戸で足を洗っていると,大きな爆発音が聞こえました。
千葉県成東町(現:山武市)にあるJR総武本線・成東駅。
成東は,戦争末期,
軍部が掲げた「本土決戦」の重要な拠点とされた九十九里浜に近く,
重要な拠点でした。
本土決戦となったときに,海岸の土にうめて使おうとした弾薬が,
成東駅に停車中だった貨物列車に積まれていたのです。
駅では学徒動員として働いていた駅員さんや兵隊さんがいたそうです。
中には,今で言う中学生くらいの学生さんも・・・
貨物列車をねらって米軍が空爆しました。
たちまち列車は火炎に包まれ,貨車に引火する危険が高まりました。
被害を最小限にするために,
駅員さん兵隊さんが総出で住民への避難を呼びかけました。
そして,バケツリレーで消火作業に努めました。
「このままでは,みんな吹き飛んでしまう。なんとかしなければ!」
という思いから,
列車を人家の少ない方向へ避難させようとしましたが
間に合わず大爆発が起こりました。
長谷川駅長さんはじめ,駅員さん15名,
兵隊さん27名の計42名の尊い人命が奪われました。
(発表資料により正確な数字が違います。)
幸いなことに地元住民の死者はいませんでした。
戦争が終わるわずか2日前のできごとです。
駅長さんのおかげで祖父は命拾いしました。
今日も成東駅のホームには学校へ登校する学生さん,
海へ向かう親子連れの幸せそうな姿があります。
あの日から70年以上も経ってしまった今,
あの日のことを知る人も少なくなってしまいました
命がけでみんなを救おうとした尊い人々がいたことを忘れてはなりません。
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