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可能性をつぶすな
白か黒かはっきりさせないと気が済まず、グレーゾーンを許さない人を見かけることがある。許さないというか許せないというべきなのか、納得できないこと(その人の中でグレーまたは黒だと思うこと)に対しては非難したり強気の断罪に走っていたりするのを見ると、ちょっと心配になる。
個人的には、誰かが傷つくことや迷惑がかかることでなければ、別にどっちでもいいんじゃないかって思う派。白黒つけなくても、生きていける。
どっちでもいいっていうのは、どうでもいいというなげやりの意味ではなく、それぞれが好きにできるならそれを尊重したらいいという意味で言っている。共生ってこと。
そもそも価値観は人それぞれだから、視点が変われば正解も信じるものも変わってしまう。どこまでが白で何が黒かという境界線も変わる。グレーの幅も変わる。
自分が普通だとか常識だと思っている範囲も、他の人から見たらずれているかもしれない。いや、ずれているかもどころの話ではなくて、結構違うってこともあり得る。似たような考え方の人同士でも完全に一致することはないだろう。
そこには絶対的な指標もインジケーターもない。
倫理観は別として、良い悪いより好きか嫌いかという好みの問題にすらなってくる。頼れるのは結局、経験から培われた価値観だったり、柔軟な思考力や想像力だったり、感覚的なものになってしまう。これはもう、その人を構成している要素でオリジナルのものだ。
新しい価値観や出来事に出会うとき、既存の価値観や感覚的なものを信じながら進んでいくわけだけれど、いきなり白黒ばっさり切り捨てず、これを柔軟に受け入れられるタイプの人が成長する。
いったん受け止めて、合わなければ手放せばよいのだ。ちょっと食べてみたらいい。もし合わなかったのなら、迎合する必要も、切り捨てる必要もない。合わないのにわざわざ合わせるふりをするのも、突っ込んでいって切るのも、どちらも消耗してしまう。
結局、どれだけ自分を持っているかということに還ってくるのかもしれない。ある程度の軸があれば、違いを許容できるし、相手を攻撃しなくても立っていられる。
自分を持っていることと、自分の殻に閉じこもることはまた別だけれど。
新しいことに心を開いて存在を認めつつ、自分の感性で進めばいいんじゃないだろうか。知らなかった新しい世界が、可能性が広がっていくかもしれないのだから。