Lostの側面
その日私は目の前を通りすぎる蜘蛛を見て、私がこの蜘蛛として、そしてこの蜘蛛が私としてこの世に存在した可能性をぼんやりと考えていた。私がヒトである運命の気まぐれは一種の悪戯にも感じてしまう。思考は徐々に生命のヒエラルキーについて、続いて私が生きる上で避けられない存在「自己」について派生していた。「わたし」は一生、私から逃れることは出来ない。それがどういうことなかと想像すると、先の見えない将来への不安が無性に募った。
社会が自分向きではないと気が付いた時、それに合わせるか、自分を貫くか、ちょうどその間を彷徨うように生きるかの選択を迫られる。自分を貫くというのは、例えば作家のJ.D.サリンジャーのように早くに成功を収め(本望かどうかはさておき)、その収益のうえ隠遁制作生活を送るほかないだろう。だがそのようなものは到底実現できない。ならばその間を彷徨うほかない。
例えば、Connie Converseのように。
1950年代に活動していたフォーク・シンガーのConnie Converseはまさに社会と自身の世界を彷徨いながら生きる居場所を探していた人物だ。秀才だったにもかかわらず音楽のために大学を中退し、ニューヨークの印刷所で働きながら一人ひっそりと制作を行なっていた。彼女の楽曲に"talkin' like you (two tall mountains)”というものがある。そこで彼女は社会に生きるうえでの疎外感をこのように歌っている。
In between two tall mountains
there's a place they call lonesome
Don't see why they call it lonesome
I'm never lonesome when I go there
素朴な愛嬌を持つ歌詞とは対照的に不穏さが忍び寄るような旋律は、聴く者をその場所へ誘うような不思議な引力を持っているように感じる。音楽は時を進めるものであるが、彼女の曲が聴こえると時は止まり、別の空間が生まれる感覚を覚えるものだ。静かに目を閉じ、耳を澄ますと彼女がいた時代と繋がることができる。そしてどの曲も小さな影を落としているが、同時にそこに光があることを聴くものに意識させる。
しかし彼女の内向的な性格のためにライブハウスで演奏する機会は少なく、人前での披露は友人宅でひっそりとしたものが多かったという。一度のテレビ出演を果たすが、世間は彼女の魅力に気づくことはなかった。ついに音楽仲間とも疎達になったConnieは1974年、弟の家に手紙とデモテープを残し、行方を眩ませた。そして今日に至っても彼女のその後を知る者はいない。
残された家族や友人は突然のConnieの喪失を味わうことになる。何かを失うことは非日常的で耐えられない。だが、彼女のほうはどうだろう。絶望のため生きることを諦めたのか、それとも別の何かを求めて姿を消したのだろうか。そのことが頭の中で堂々巡りするなか、ある一冊の本に出会った。レベッカ・ソルニットの「A field guide togetting lost」(邦題:迷うことについて)である。
ソルニットは“lost”という言葉には本質的に異なる二つの意味をがあること教えてくれた。一つに物質的な何かを失う、喪失としてのlost。鞄の中にしまった鍵を見つけられなかったり、洗濯したはずの靴下が片方見つからないこと。自分の居場所は明確なまま、なにか一つのピースを失うこと。このlostは失われたものを除けば、周りを見渡しても普段通りである。
もう一方のlostは、方向感覚を失い街や森で迷うこと。迷うことで自分の居場所が分からなくなり、不安が募り、3秒前も見ていたはずの景色が変容する。そしてまわりの空気や人の顔がどこか冷たく感じることだ。そのような状況に陥った場合、多くの現代人はポケットからスマホを取り出し、さっさと自分の居場所を知るためにGPS機能を駆使するだろう。時間に追われる我々にはゆっくり時間をかけて進むべき道を熟考する余裕は残っていない。
しかし後者のlost、すなわち「迷う」状態を受け入れると「自身を見失う」ことが可能になるという。それは主体がそこに存在しているにもかかわらず、これまでの世界への手掛かりを失い、初めて広大な世界と対峙することが可能になる経験だ。そして世界の中で他者との繋がりが消えると、次第に自己の存在までもが希薄になり、自己意識の呪いが解かれる。それはまさに何者でもなくなるような体験だ。身の周りに見えるものは既に名前がある状態ではなく、それが一体何であるのかを自身の手で探ることだ。そうすると世界はまるで別物に見えるだろう。
これは一種の生きていく術であるように思えた。私が感じていた「自己」から逃れることのできない窮屈さを一時的に解放するものであることに気分が高揚した。そうだ、息が詰まる思いがするときはいっそのこと迷えば良いのだ。迷えば、世界はそれまでは見えていない部分をそっと示してくれるのかもしれない。
これに気がついたとき、Connie Converseの失踪に新たな光が映り込む感覚がした。それまで「探さないでください」と手紙に残し、車に乗り込んでどこか遠くへ向かった彼女のその先は明るいものではないだろうと思っていた。しかし、この発見がある今、私は彼女が確かにそこに存在したことを、彼女が愛する音楽にひとり向き合ったその美しく愛おしい時間を安易に悲劇として幕を下ろすことを拒みたい。
彼女はひたすら車を走らせた。彼女を苦しめ繋がりを感じられなかった社会からできるだけ離れるために。しっかりとハンドルを握りしめアクセルを踏み、街を離れ、当てもなく山中を走った。そうしていると彼女は徐々に方向感覚を失った。しかし目的地がないため「道に迷った」という状況でもない。それは今いる場所が自身が知りうる世界のすべてになることだ。すると体の外側と内側が溶けあい、自身と世界の境界が曖味になってしまう。それは「何者でもなくなる」という意識的な選択であり、世界に紛れ込むことを意味する。すると世界の方も彼女を引き寄せる特別な引力のようなものを働かせ、彼女の望み通りすっかりと世界に馴染ませてしまう。そうなると我々にはもう彼女の姿を見ることはできない。
彼女は世界に紛れたその後、どこか居心地の良い場所に行き着くことができただろうか。残された我々は、彼女が現実世界で得ることができなかった繋がりをどこかで見つけていることを祈るばかりだ。彼女が歌う"talkin' like you (two tall mountains)”の終幕のように。
In between two tall mountains
there's a place they call lonesome
Don't see why they call it lonesome
I' m never lonesome now I live there
彼女は人々が"lonesome"と呼ぶ場所に自身の居場所を見つけている。この歌のように今この時も、彼女が繋がりを感じられる環境で自身のために歌い続けていたら、どれほど素敵だろう。
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