多様性の一部
こんにちは。
最近多様性や差別について考えたことがあったので、noteを書いてみます。
ある日、同期がコロナは初めて人類が共通して戦うものになったと言っていた。
私はそれに違和感を感じる。
なぜなら、コロナは格差を浮き彫りにしているからだ。
アメリカでは、コロナの患者が黒人やヒスパニックに多くみられる。ニューヨーク・タイムズは、イリノイ州(シカゴを含む)とミシガン州(デトロイトを含む)の黒人人口比率は共に14〜15%でありながら、感染者の30%前後、死者の40%前後を占めていると報じた。黒人は、エッセンシャルワーカーで他者接触が多いこと、医療保険が欠如していること、基礎疾患を持つ割合が高いことがその要因である。
シンガポールも同様だ。ドミトリーと呼ぶ外国人の単純労働者の居住施設で、集団感染が発覚している。1部屋に10人以上が入る典型的な「3密」(密閉・密集・密接)の住環境で、瞬く間に感染が広がった。
確かにコロナは人類の敵だ。
しかし、世界中の人が均等に苦しんでいるのではないし、もしかすると形骸されていた格差を可視化している。
今こそ、差別や多様性を考え直さなくてはならないのではないか。
話が脱線してしまうが、私は昨年初めて差別を受けた。
モロッコにボランティアで滞在している時に、子供から大人までにニーハオと声をかけらた。これは決して歓迎しているものではない。どこか見下している。子供が近づいてきて、顔を覗き込んでまで何度も声をかける。車で追い抜く時に、歩いている私にわざわざニーハオと言い、つきまとわれることもあった。
”そもそも日本人です😂”と今は笑い話にしているが、当時は本当に腹が立った。
今日のコロナ禍の差別ととも思い返すと、私自身が多様性の一部であることにも気づけたタイミングでもあった。モロッコ人にすれば、肌の色も違い(私はまあまあ黒いが笑)、服装も異なる日本人は外の人間だ。単民族国家の日本では、見えなかった世界。
多様性の一部であると気づいて終わりになりたくない。手段はまだまだわからないが、人生の中で国籍や言語、宗教などにより判断されず、みんなが多様性の中に存在しているのだと自覚している社会を作っていく。
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