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「純粋性」というものについて考えてみた。

2019年から温めてきた
「映画作り」のプロジェクトが
見えるカタチで始まった。
 
「give & join」と「共同創造」を
コンセプトに、これまでに無い
革新的な映画制作を目指している。
 
映画の制作費をクラファンで
集めているのだけれど、現時点で
2600名以上の人がJoinしていて

LINEではオープンチャットも立ち上がり
新たな「Join」のアイデアだったり
投票だったり、DAO的な動きを見せている。
 
そのオプチャのやり取りの中で
「純粋性」というキーワードが出て
アンテナに引っかかったので

今日は、その「純粋性って何?」って
ところを改めて深掘りしていきたいと思う。
 

純粋性は相対しない

結果のような見出しだけど
これがわたしの採用している「純粋性」。
 
「純粋」って言葉にすると
その相対として「不純」とか
「純粋じゃない」ものをイメージするけど

純粋というのは、例えるならば
「水」のようなもので
 
清濁合わせのんで尚清らか

ということなんじゃないか、と。
 
水には、あらゆるもの
例えば、人にとって有益なものも
害のあるものも同時に含まれていて
水はそれをジャッジすることがないし
微生物の力によって浄化されてゆく。

それと同じように、人間の「純粋性」は
善悪というジャッジを包括している
別の表現をすれば、多様性を
包括することで顕現するものなのでは
ないか、と思う。
 
水の浄化は
人間の意識で言うと「受容」「赦す」
ということなのかも
、と認識している。
 
人間ってエゴがある生き物。

自分のエゴに対して、無意識に
嫌悪感・抑圧感=ジャッジがあると

現実の世界で、嫌悪感を感じるような
人の言動や受け入れ難い言動が視界に入り

その人たちの言動に対して
「純粋じゃない」というジャッジに
なるのだけれど、それは、自分の中の
「多様な自分」を認知・受容してないから
潜在意識はそれを顕しているだけ。
 
「周り=わたし」ってやつですね。
 
地球上の人間全てに言えることですが
どんな人にだって、○ソな自分がいる。

例えば、あざとい自分(←これ私w)
たくさん評価されたい、賞賛されたい
計算高い、目立ちたい、人と比べては
落ち込む自分とか

色々あると思うけど、そういうのも
自分の中にあるんだな、ってことを
マルっと受け入れていくと
自分の中で対立がなくなるのです。
 
多様な自分を受け入れて(赦し)いくと
ジャッジから解かれるのですね。
 
そして、自分へのジャッジから
解かれると、周りの人のエゴに対しても
ジャッジがなくなります。
 
自分の中の純粋性も
善悪というジャッジを超えて
多様な自分を認知・受容(赦す)を
していくことで、浮上します。

清濁合わせのんで尚清らかな
水のように。
 
同時に、その前提意識で人と関わると
人の純粋性にフォーカスが
いきやすくなります。


ということで、今回改めて
純粋性というキーワードを下さった
方々に感謝します♪
 
ありがとうございます(//∇//)
 
#純粋性
#多様性
#水
#ジャッジ
#赦す
#潜在意識




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