みじん切りと愉悦
料理がそれほど得意ではないので、独創的なものよりも確実なものを作りたいと日々思っている。そのため料理本を見て作ることがよくあるのだけれど、あるとき、参考にした本に「玉ねぎをみじん切りにする」という工程があって、そこには「日本人のみじん切りは細かい。もっとおおざっぱでもよい」という旨の注意書きがしてあった。
それはスパイスカレーの入門書で、わたしが敬愛する方の書かれた本だった。
スパイスカレーを作るなら玉ねぎのみじん切りは必須工程なのだが、その注意書きが目に留まり、わたしの手もぴたりと止まってしまったのだった。
わたしはみじん切りが好きだ。
中でも玉ねぎをみじん切りするのは非常に気持ちがよい。なぜかというと、玉ねぎは水分を多く含んでいるのかやわらかく、たとえばにんじんに比べて包丁を入れた時の抵抗が少ないし、ネギに比べて繊維を断ち切りやすい。
みじん切りといえば玉ねぎ。これは、夏といえばうちわと蚊取り線香、と主張するのと同等くらいには(もしくはそれ以上に)多くの人の賛同を得ることができるだろう。
みじん切りの魅力は、無心になれることだと思う。
たとえば、我が阪神タイガースが不甲斐なく負けを喫しており、心は怒りで煮えたぎっていても、玉ねぎのみじん切りをはじめた次の瞬間その怒りはどこかへ消え去り、ただ「みじん切りをしている」ということだけがわたしの内側を満たし、他の何も受け入れない状態となる。それはみじん切りを終えるまで続くのだ。
わたしは無心状態をなるべく長く継続させたいがゆえ、すでに細かくなっている玉ねぎをこれでもかというほど、さらに細かく刻む。刻んで刻んで刻みまくる。ああ、もしかしたら、無心状態とか何とかいいながら、無意識にストレス解消をしようとしているのかもしれない。なんにせよ、みじん切りならぬ無心切りの果てには細かすぎるほどに刻むに刻まれた玉ねぎの山が残るのだ。
ここで話が一旦逸れるのだけど、よくみじん切りをする際には、半分に切った玉ねぎの根っこの部分を残した上で縦に切り込みをいれ、それを横にして切っていくとよい、と指南書などに書かれているが、わたしはこの方法を良しとしない。根っこがつながったままだと非常に切りにくい。根っこを先に切り落としてしまってから闇雲に切り刻んでいくことの何がいけないのか。それの何が効率的でないというのか。みじん切りフェチの立場から、物申したいと常々思っている。
みじん切りについて一家言ある身として、つい感情的になってしまった。
閑話休題。話を元に戻そう。わたしはスパイスカレーが大好きで、スパイスカレーの虜になったのも、前述の入門書のおかげと言っても過言でないくらいこの作者のことを崇拝しているのだが、例の注意書きだけは受け入れることができない。
たとえおおざっぱなみじん切りのほうがそのスパイスカレーをより美味しくするのだとしても、わたしにみじん切りをさせたが最後、細かく刻まれた玉ねぎしか残らないのだから仕方がないのだ。
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