静寂がうるさくて、しずかに叫ぶ
(すこし前に書いた文章が出てきた。夏は過ぎたけれど、あのときの自分の心の揺れ動きががよくわかるから、今更ながら投稿しようと思う)
気だるい朝を何とかやり過ごし、久しぶりに珈琲をドリップしようと思ったら粉が切れていた。調理台の上でぽつんと待っているカップが不憫で、蛇口から水を汲んで飲んだ。
日常の雑記を書き続けることを誓ったはずなのに、夏がそれを阻む。
夏の暑さはわたしから色々なものを奪っていく。母との約束や、仕事の進捗、それから、胸の真ん中らへんにあった固い決意。ぎゅっと固められていたはずなのに、夏はあっさりと溶かしてしまった。
夏休みを満喫中の息子は、毎日オンラインで友人たちとゲームを楽しんでいる。二十畳のリビングが彼とわたしの共通の居場所だから、騒々しさのすべてを受け入れなくてはならない。とはいえ彼もまた、わたしに時々訪れる苛立ちのすべてを受け入れざるを得ない。わたしたちは互いを気遣いながら生活しているゆえ、彼は騒々しさの上限を無意識に調整しているし、わたしは苛立ちの末ぶつくさ呟いても、決して理不尽に彼に対してぶつけたりはしない。
たったふたりきりの静かなはずのリビングが騒々しさに包まれると、雑記を書くどころではない。脳内にゲームを楽しむ彼らの声が反響し、思考が断絶させられる。
思考が遮られ、新しい文章を組み立てることができずにいると、自然と脳裏に過去の映像が流れ込んでくる。それは、騒々しさからの連想。子どもの頃の。家族旅行の。高速を行く車内の。爆音で流れる演歌。会話が聞こえないほど大音量でかけられている、石川さゆり。頭に、体に刷り込まれる、天城越え。
父は横暴で、自分本位な人間だった。自分の所有物に子どもが触ることを決して許さなかった(「俺が金を出して買ったものに子どもが触るな」が口癖だった)。だからわたしは、VHSへの録画の方法を知らなかったし、CDプレイヤーの使い方もわからなかった。流行りの音楽を聴くこともなく、アニメの主題歌か、車に乗るたびに流れる演歌がわたしにとっての音楽だった。
あの頃はそれをあたり前に受け入れていたけれど、今思えばちょっと異常だったように思う。そんな、ちょっと異常なことを積み重ねて育ったわたしは、当然ながら、少しくらいの騒々しさなんて本当は平気なのだ。
そんなわけでこの文章は息子たちの声に溢れるリビングで書き上げた。時々、彼らにつられて草とか書きたくなってしまうのを堪えながらの作業だった。
息子が塾に行くと、ふたりきりだったリビングはひとりきりになってしまう。のんびりと首を振る扇風機の音が空虚に響いている。静寂とは、こんなにも耳障りだっただろうか。静かさが、うるさいくらいにひとりきりを際立たせる。ねえ、ちょっと黙ってよ。しんとした夜のリビングに、声にならない叫びが落ちる。息子の帰りをただひたすらに待つ。