きつねの窓
小学校で国語の時間に読んだ安房直子「きつねの窓」の児童文学としてのプロットと描写の魅力を、あらためて考えてみたい。
主人公「僕」は猟師で、狩りをするために山へ入り、道に迷ってしまう。そこで子狐を見つけ、追っていくと、突然、いちめんのききょう畑が開け、一見の染め屋が現れる。程なく店からは子どもの店員が出てきて話しかけ、主人公に指を染めることを勧める。そして自分の染めた指で窓を作って見せる。すると、そこにゆらりと尾を揺らせた狐の姿が見える。それは人間に銃で「だーん」とやられた母親だと言う。人間に親を奪われた小狐は猟師に敵意を向けはせず、こうやって母親に会えるから寂しくないのだと告げる。猟師は初め懐疑を抱くがその窓を「すてき」だと思って指を染めてもらう。銃を対価として。指で作ったひし形の窓には、好きだった女の子、焼けてなくなった家、そこに暮らすかつての自分や死んだ妹の気配が現れる。しかし、喜んで山小屋へ帰った「僕」は習慣から真っ先に手を洗ってしまう。その後山で子狐の染め屋を探し当てることはできず、指で窓を作っても二度と何かを映すことはないが、つい指で窓を作るのが癖になり、人に笑われることがある、と語るものだ。
なぜ、狐の子は人間の姿をして現れたにも関わらず狐を母さんと明かしたのか。なぜ人間に敵意を見せないのか。「僕」に指を染めることを勧めたのはなぜか。
例えば、家に帰った主人公が真っ先に指を洗って喪失感を味わったことに作者の意図がある、という考え方もできる。子狐から母親を奪った「人間」が大切なものを二度喪失することで復習が果たされる、という見方である。
この物語に「喪失感」が深く関わっていることは間違いがない。しかし、作者が差し出しているのは「喪失」を味わったものの心の奥には何があるのか、ということではないだろうか。子狐が思い出と引き換えに「僕」が生計を立てるために必要な銃を要求したことには無言の抗議があろう。猟師とそれに狩られる動物の対峙と言う設定の中に、現実の理不尽さは込められている。「僕」は巣の中の親狐を仕留めようと子狐を追って行ったのだ。
しかし、その「僕」も家族を(おそらくは戦争で)失っている。母狐を失った話をしたあと、子狐は「ぱらりと、両手を下ろしてうつむ」いてしまう。子狐のかなしみは「僕」を責めるのではなく、自身の内面に向けられている。寂しさに耐えながら、大切なものへの思慕によって心を温めているという点で、「僕」と子狐は同じなのだ。だから、子狐は「僕」に指を染めてあげようと言ったのではないだろうか。そして、狐としての真実の姿を見せてくれたのではないか。そこには生きるものとして人間と何ら変わりのない内面が浮かび上がる。人生のかなしみや寂しさを、ただ自身の内面に秘め、現実を生きていくものへのやさしさが、この作品の底流をなしているといえるだろう。初めは懐疑的だった主人公が次第に子狐に心を開き、寄せていく物語の展開の中にもそれは感じられる。
指で窓を作る遊びは民間伝承として日本各地で幾例も記録されている。神霊界への興味から生まれたものであろうが、「きつねの窓」ではむしろ人間の精神界の深さに視点が置かれているといってよいだろう。人は心の中にもう一つの現実を持っていて、そこには忘れ難い大切なものが、まるで山奥にひっそりと隠れているかのように存在し続けている。それは時に、生計の途よりも大切なものとなり得るものだ。
小学6年生の教材となったこの物語は、もうすでに未来への基盤となる生活経験をもって「今」を生きる10代前半の子どもたちにとって、ほんとうに大切なもの、時を超えて心に残り続けるものは何かを考えさせるだろうし、またそのように多重構造をしている心の不思議に触れるきっかけになるだろう。このような枠組みは児童文学として子どもたちが内面の世界に気づき、それについてさまざまに想像し、たとえ現実に傷ついても内面の豊かさによって逞しく生きていくための道標となることを可能とするものである。確かな論理に支えられた想像性=創造性として児童文学にふさわしい作品といえよう。
また、この作品には描写の繊細さにも特徴がある。「ふと、空がとてもまぶしいと思いました。まるでみがき上げられた青いガラスのように。すると地面も、なんだか、うっすらと青いのでした。」「その景色はあんまり美しすぎました。なんだか、そらおそろしいほどに。」「‥しっぽをゆらりと立ててじっと座っています。それはまるで一枚の狐の絵がピッタリとはめ込まれたような感じなのです。」「きつねはぱらりと、両手を下ろしてうつむきました。」「風がザザーって吹いて、ききょうの花が口をそろえて言ったんです。あなたの指をお染めなさい。それで窓をお作りなさい。」
このように、言葉によって映像が脳裏に描き出されるような作品であることも、児童文学としての優れた魅力である。言葉そのものは平易な表現であるが、豊かな表象を持っているからだ。子どもたちは言葉を獲得すると同時にそれらの表象そのものをも獲得するのである。これは言葉による内面の醸成につながるものであって、文学の本質をなす、欠かせない要素である。
文学はプロット=「論理」と描写=「表現」から成り立っているが、以上、プロット・描写の両面から、児童文学として「きつねの窓」が時空を超えて読み継がれる価値と魅力を備えている作品であることは明らかである。