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【あらふぉ~半生を振り返る】私を形成した両親について02

「おまえはオレのクローンだ」

父はよくそう言っていた。
確かに、考え方や感じ方が似ていると自分でも思う。
しかし、40年以上も生きていれば、母から受け継いだ遺伝子や、性別の影響、そして様々な経験を通して、全く同じ人間にはなり得ない。
それでも、この世の中で最も思考が近しい相手は、紛れもなく父であると感じている。

九州で生まれ育った父は上に兄が、下に妹がいる3兄妹の次男坊だった。
一般的に家を継ぐのは長男だと思うが、謎というか一種呪いと言うか、様々な理由で次男が家を継ぐ家系だった。ここの話はまあまあ怖いのであまり深掘らないが、父が「少々変わっている人」の要因になっている。

祖父は地元の人格者で、さらに国体に出るほどスポーツ万能な人だった。
私の記憶の上では、
「笑顔が素敵なムキムキのおじいちゃん」
という印象だった。そして祖父も次男だった。

その祖父が、
「俺の代で次男が継ぐという呪いを変えてしまおう!」
と、長男を跡継ぎにすべく教育を始めた。
祖母は末っ子の妹を溺愛する。
微妙に家に居場所が無かった父は、地元の建築デザイン学校を卒業し、グラフィックデザインを学ぶため上京した。

父は母と同い年で、20歳という若さで私を授かった。
お互い家の後ろ盾が無い状態だったが、人としては真面目だったのでキチンと結婚をした。
しかし、結婚後も変わらず自由人だった。

九州といえば、お酒好きな人が多いイメージがある。
遺伝なのか、行事の際は子供にも飲ませている土地柄なのか、理由はわからない。
父も例に埋もれずお酒が大好きだった。
貧乏でも一日一回は必ず飲みに行く。飲みにケーションを愛していた。
しかし共働きと言うのもあり、子供の面倒は見なければならない。

どうしたかというと、夜中に子供を連れてバーに通った。

昭和に曲がヒットした、とある音楽グループのメンバーが経営するスナックが近所にあり、私に暇つぶし用の画用紙とペンを持たせ、お気に入りだったその店へよく通っていたのだ。

当時、そのバーで歌を歌っていた、現在はハイスペックな大手保険のお姉さんとなったSさんには、今でも保険の契約を通して仲良くして貰っており、当時のことをよく話してくれる。

保育園に向かう自転車で父が私に話すのは、
「点は線になり、線は面になる(グラフィックの基礎)」など、今よくよく思い返すとある種、英才教育とも取れる内容だった。
多分、父の脳内がグラフィックに一点集中していただけだと容易に推測できるが、その影響は絶大だった。
ある日、私は3日間ぶっ通しで仕事をし、疲れ果てて帰宅した父に、こんな質問をしたらしい。
「お父さん、お仕事楽しい?」

3徹明けで意識が朦朧としていたにも関わらず、父は満面の笑みを浮かべて、こう答えた。
「お仕事、楽しいぞぉ~!」

かくして、5歳で私の将来の目標が決まり、愚直な私は恐ろしいほどまっすぐに、何の迷いも無くそのままデザイナーとなった。


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