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【あらふぉ~半生を振り返る】私を形成した両親について01

良くて「変わってる」
悪くて「不思議ちゃん」

どこへ行っても大体「変な人」にカテゴライズされた私は、あまり一か所に居られない人だった。
学生時代からのバイト・パート、会社員、フリーランスなどなど、お世話になった会社は20社近くになる。
超氷河期就職組で、「失われた30年」ど真ん中を生きてきた私は、それでもとにかくお金を稼がねばならなかった。
学費や生活費のために、370万の借金を抱えていたからだ。

こんな風に書くと、暗い過去のように思われるかもしれない。
しかし、私はこの借金に対して今でも心から
「ありがとう!」
と感謝している。
なぜなら、もしあの時借金が無ければ、私は今のように自分の人生を心から楽しめる人間にはなれていなかったと心底思っているからだ。

そんな私の根幹を形成した両親について、まずは書いていこうと思う。

群馬で生まれ育った母には、姉が二人いた。
祖母・母を加え、家事をテキパキこなす女性が上に4人もいる家庭の末っ子はどうなるか?
家にもよると思うが、カップラーメンも作れないお嬢様が爆誕したのだった。

そのままいけば、地元で嫁ぎ、困ったことがあれば
「おねえちゃ~ん助けてぇ~」
と言いながら、群馬の家のデキる家長となった姉に
「まったくおまえは」
などと言われつつ、縁の深ーいコミュニティの中で普通の人生を送ったのかもしれない。

しかし母はなんとなく英語を学びたいと東京へ。
そこで九州から上京してきた貧乏な専門学生にうっかり恋をして、
20歳でうっかりデキチャッタのである。

その土地の考え方は色々あると思うのでよくは解らないが、それは家長になる姉の相当な怒りを買うような事案だったらしく、なんと母は勘当されてしまったのだった。

湯も沸かせないお嬢様が突然家から勘当される。
夫は次男で「宵越しの金は持たぬ」がモットーの大酒のみの貧乏人で、さらに子供がいる。
冷静に考えても、絶望的な状況だったに違いない。

ところが母は以外にも相当な能力を秘めていて、一度決めたことは絶対に曲げない人だった。
そして何より一途だった。

こうして、埼玉の狭く古いアパートで3人暮らしがスタートした。
この経緯から母は私にこんなことをよく言っていた。
「外国の人と結婚して外国に行ってもいい。自由に生きなさい。自己責任でね

そうして小学一年生から、自立する為の教育プログラムが始まったのだった。


【あらふぉ~半生を振り返る】はじめに

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