【あらふぉ~半生を振り返る】超氷河期の恐ろしい話
専門学校での授業は、まったく役に立たなかった。
何故なら、アナログな授業が多かったのに対し
丁度デジタルへ切り替わった時期だったからだ。
デザインは今やパソコンまたはタブレットで作業するのが普通だと思うが昔は全てアナログだった。
絵の具を溶いて絵を描き、
紙を貼り合わせてレイアウト(配置)をし、
文字などを手書きして、
写真の指定をする。
文字は写植という一文字ずつ文字を組んだ版をつくる職人が居て、
写真はフィルムで、これも小さなフィルムに対して削ったり塗ったりする加工職人が居た。
全てが職人によって作られる世界。
そんな業界を一変させたのは、MACとAdobeだった。
私の年齢だと、さすがに完全アナログの現場はもう無かったが、ギリギリその名残が残っていた。
よく父に、
「グラフィックの基礎を見た、最後の生き残りだね」
と言われる。
私が選んだ専門学校は、私が2年の時にやっとMACを導入した。
しかも予算の関係か全生徒分用意できず抽選式。
既にデザイン業界ではMACを使える人を優先していたので、かなり遅い対応だった。
しかし、それ以上に深刻だったのは超氷河期と呼ばれる就職難だった。
バブル崩壊後、企業で削られた予算の代表として「3K」と呼ばれるものがあった。
「交通費」「交際費」そして、「広告費」である。
グラフィック業界は転落していく過渡期だった。
専門学校の就職課には、当然のように求人が来ない。
1月の時点で、就職が決まったのは2人だけだった。
その時に教室で聞いた言葉が忘れられない。
「親が『こんな酷い状態は長く続かないから、就職は待った方が良い』って言うから今年は見送ることにした」
…そこから「こんな酷い状態」が20年以上続いたのだ。
そして、超氷河期で就職しなかった人は今、国の就職支援を受ける対象となっている。
コロナが来た時、私はこの時のことを思い出した。
「こんな酷い」ことは、定期的にやってくる。
未経験でも年齢というアドバンテージがあるうちに、正社員になりたい人は希望する企業では無かったとしても、とにかく就職することをお勧めしたい。
年齢が上がるほど正社員への転職には「企業での経験と実績」、または「人脈」を要求されるからだ。
私は就職が決まった2人のうちの1人だった。
希望するグラフィックの求人は無かったが、就職しないなどありえない。
なにしろ、この専門学校のお金と、専門学校に通う生活費の足りない分、
370万の借金をすでに背負っていたからだ。
ちなみに、学校へ通っている間はその利子を払っていた。
入学時に購入を勧められる教科書や画材は当然買えなかった。
どうしたかと言うと、画材は必要最低限で授業前に購入。
教科書は父の会社にいた同じ専門学校卒業の先輩から頂いたり、友人に見せてもらうなどして凌いだ。
課題を使いまわしたり、バイトで単位が足りなくなり、仕方なく夏期講習を速攻で終わらせて先生を苦笑いさせたりしていた。
卒業生がグラフィック業界に多いという理由で選んだ専門学校だったので、正直「卒業証書」さえあれば良いという考えだったのは否めない。
しかし、借金のあまりの多さと授業内容の使えなさに、
「職業訓練校へ行った方が良かったかも…」
と、思ったことは忘れることにした。
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