大阪城公園と戦争の影
先日所用がありまして、大阪なんばまで行ってきました。
帰りに大阪歴史博物館へ寄ろうと経路を調べましたが、なんばから地下鉄だと大阪歴史博物館の最寄りの谷町四丁目駅への乗り換えがややこしく、森ノ宮まで出てそこから歩くことにしました。
私は歴史が好きで地元の史跡や博物館もよく巡りますが、ルーツの一つである大阪の歴史も好んで調べていて、大阪歴史博物館には折に触れて立ち寄っています。
森ノ宮から大阪歴史博物館まではけっこうな距離がありましたが、大阪城公園を突っ切っていけばそんなに退屈せずに進めるだろうと思って散歩がてら歩きました。
ピース大阪(大阪国際平和センター)を見つける
私は超絶方向音痴なので地図を確認しながら歩いても逆方向に行ったりしてしまいます。
森ノ宮から博物館方面なら通らなくていいはずの吉本の森ノ宮漫才劇場や、COOL JAPAN PARKなどもこんなところにあるのかと思いながら通過しました。
方向音痴はこうして地理に詳しくなるのですが、もう一度行けと言われてもそれは無理なのでした。何度か迷ってその知識は本物になるのです。深いようでただの経験知です。
大阪歴史博物館にはよく行ってたものの、大阪城公園を散策するのはあまりないことだったので、大阪のど真ん中とは思えない豊かな自然と、散歩したりジョギングしたりでのんびり過ごす人々を、別世界のようだなと思いながら眺めていました。
森の中には沖縄戦で亡くなった方の慰霊碑などもありました。大阪城公園と戦争が結びついていなかったのでなぜここにあるのかなと思いつつ手を合わせ、そんな中、ピース大阪という建物を見つけました。
どうも先の大戦に関する博物館のようでした。
時間も遅くその日は入ることができませんでしたが、なぜここだったのだろうという疑問はぬぐえませんでした。
大阪城公園は焼け野原だった
先日母と一緒に車に乗っていて母の若いころの話になり、現在大阪城公園になっている場所は、長い間空襲の跡を残して焼け野原のままだったという話を聞きました。
母親は高校が天王寺で御堂筋線で通っていたとの事でしたが、なぜか環状線に乗っていたという話もします。
環状線が環状線になった(大阪と天王寺を環状の線路でつなぐ)のは昭和36年の事だそうですが、大阪天王寺間は明治28年には開通していたそうです。
母の若いころは環状線からその光景が見えたということで、周りが整備されてゆく中残る焼け跡は異様な光景だったようです。
母親が中学生の頃の話といいますから、昭和30年前後になるでしょうか。戦後10年経ってもそのままやってんなあ、と母は言います。
調べてみたら、大阪城公園は昭和6年に大阪城天守を復元(といってもコンクリート造り、昭和6年のコンクリート作りの建物はそれはそれで貴重だそうです)した際に整備され、そのころは公園の面積は大きくなく、敷地の大半が大日本帝国陸軍第4師団(大阪城公園へのWikiへのリンク張ってます)の用地であり、大阪砲兵工廠という大口径の火砲を作るための、アジアでも有数の大きな工場もあったのだそうです。ここは歴史も古く、そもそもが明治新政府になってから大村益次郎によって建言により設置された施設だそうです。そういうわけなので第二次大戦の時のアメリカ軍の空爆もすさまじく、現在でも不発弾が発掘されるのだそうです。
現在は大阪城を戴く美しい自然に囲まれた憩いの森で、焼け野原だったことなど想像もしていませんでした。長い間放置されたのは不発弾の関係もあったのでしょう、大阪のど真ん中で公園として整備されたのもそういう理由からかもしれません。
けっこうしょっちゅう行ってたのに知らなかった不見識を恥じつつ、次回大阪歴史博物館に行くときにはぜひピース大阪も観覧したいと思っています。
ちなみに、母がなぜ中学生のころにそんなしょっちゅう環状線に乗っていたのかは本人にも分からないそうですが、中学校の先生の所に遊びに行っていたのかもしれない、という話でした。
母の若いころの話もなかなか面白いので、それもぼちぼち記事にしてゆきたいと思います。