工場のお仕事3
今回工場で出会った人々とそこから学んだことを書いてみようと思いましたがかなり長くなってしまいました。
例によって自分の気持ちの整理と記録のために書いているのが大きいので、お気が向かれたらよろしくお願いします。
私の働いていた工場は仕事がきついので辞める人も入ってくる人も常にあり、また短期の募集もあり人の入れ替わりが非常に激しいところでした。
その工場には家業が苦しくなった時に、昼間家の仕事をしながら夜勤アルバイトに行き始めたのが最初で、結果的に数十年お世話になることになりました。なので、やめる直前こそいろいろあったけれど、あそこで働かせてもらえたからこそ今こうして生きていられると言っても過言でなく、本当にお世話になったし感謝しているのです。
それは経済的、社会的な面はもちろん、あの場所でなければ出会えなかった多くの人との出会いが私にとってはとても大きかったのです。
夜勤で出会った人々
最初は短期の夜勤アルバイトで入りました。
夜勤の工場にはいろんな人がいました。
短期なのでお小遣い稼ぎの学生さんもいれば私のようにダブルワークで来ている人もかなり多く、短期ばかりでなく何年も夜勤アルバイトに来ているベテランの方もおられました。
当時集まったのはほとんど女性でしたが、年齢や立場が違う人々ばかりが集うとはいえ、工場の中では制服で、見た目はみんな均一です。
人見知りだった私はそこにも救われました。
誰も見た目や服装で区別されない、ある意味平等な環境で、普通に生活していたらお互い関心を持たないような人ともあっという間に打ち解けました。
特に夜勤の人々はそれぞれ家庭や個人のけっこうな事情を抱えながらもみなおおらかで明るく、私にとっては苦しいのが自分だけでないこと、同じような、むしろもっと深刻な悩みを持つ方が他にもおられ、悩みを共有できた事が救いになり、のちの人生を生き抜く大きな力になりました。
どこの工場でもそうだったわけではないと思います。
当時は仕事はきつかったけど、末端の従業員をあらゆる意味で大事にしてくれる会社だったこともあり、慣れると働きやすく人間関係も良好でした。
私は本当に恵まれていました。
日勤で出会った人々
家業を畳んでからは日勤になりフルタイムで働き始めました。
日勤は夜勤ほど人の入れ替わりは多くなく、人間関係も緊張しており仕事もシビアで慣れるまで大変でしたが、大きな会社で長年働いてきた方はパートさんであっても社員さんであっても、嫌な人や性格の悪い人もそりゃあいましたが、仕事に対する意識は高く、人間的にも学ぶべきことがたくさんありました。
前述のとおり私はその工場で十数年働いたので、一世代の移り変わりを見ることになりました。それは世代による人の変化というより、社会の変化により働き方も変わった事によるものかもしれないと思うのです。
終身雇用で会社がその人の半生を面倒見ることになると、その人の人格形成にも所属している会社、職場が大きな影響を及ぼすと思います。しかし新卒さんを採用しない期間が長く続いた半面、管理職を中途で募集するなど、会社の色に染まっていない社員さんも増えました。
一人の人間を預かり育て上げるとなると、会社にもそれなりの責任があり、倫理性も問われます。また、社員も会社を背負うわけですからそれに相応しくあろうと努力するし、また会社もそれを支援します。
私が働き始めた当時はまだ、そういうやり方の会社だったと思います。
そしてそのころは、尊敬できる社員の方は多かったです。
そのことだけでも少なくとも、私が夜勤を始めた頃は良い会社だったのではないかと感じています。
国籍、またはハンデ持ちの様々な人々
何回も書きますが本当に人の出入りの多い工場で人数も多かったので、それはいろいろな人がいました。
時期によってさまざまな国籍の人にも出会いました。
一番多かったのはダントツで中国の方でしたがそれはほとんど短時間アルバイトで、近くに大学があったこともありそこの留学生の方がたくさんバイトに来られていました。留学生の方はさすがに優秀で、難しい機械操作も難なくこなしましたが、中国の方はえてしてフリーダムでした。良く言えば発想が自由、悪く言えば勝手なことをする人が多かったです。
そのほかは台湾の方、南米の方、韓国とモンゴルの方が少し、最近ではフィリピンの方が多かった印象です。モンゴルの方は名前が読めなかったです笑。社員さんでも中国の方やインドの方がおられました。
フィリピンは明るく社交的ですがライン作業に集中できない方が多く、台湾、モンゴルは穏やかで素直な性格の方が多かったように思います。
お国柄というか、やはり出身国による傾向はあり、そういうのに触れられたのも面白い経験でした。
保険加入時間の短縮により短期バイトで入ってた学生の外国人の方はかなり減りましたし、現在もそうなんじゃないかと思っています。
あとは、様々なハンデのある人々です。
発語が不自由な方、耳の遠い方、見た目でわからない病気をお持ちだった方、周囲がそのハンデを把握して相応しい工程で力を発揮されてた方もいますが、ご本人に病識がなく周囲が困惑するパターンも多くありました。
特にわかりにくいのは最近よく取り上げられるようになった発達障害です。これは社員さんもだし、パートアルバイトにも疑わしい人が多く見られました。学歴の高い方はアスペルガー症候群ではないかと思われる事が多かったです。
これは病気で差別しているのではなく、実際に仕事に支障が出るので疑うのです。しかし、ご本人からしてみると、病気であるとなると評価が下がるとか切られるかもしれないなどの懸念があってか、表明されることはまずありませんし、そもそも病識がない方がほとんどかと思います。
性格であって病気ではないと言われることもあるかと思いますが、病気ならば改善の余地がありますし、それを性格のせいにされるのはかわいそうなのではないかと私は思います。
それに診断が出ることで、もっとご自分に合った働き方の模索ができるのではないかと思うのです。特に正社員の方は会社から切ることは難しいので、ある正社員の方は大変気の毒な事に体を壊されてしまいました。大手会社の正社員だから頑張って務められたのでしょうが、向いていないことはだれが見ても明白で、立派な学歴をお持ちの方だったのだからほかの道も探れただろうにと他人事ながら悔しい気持ちになります。
しかし現状では、発達障害を表明したところで逆に腫物扱いされたりより働きにくくなったりする事のほうが多いのかもしれず、難しいのかもしれません。
現場で働いてた人間としては、もし病識のある人は、こっそりとでも教えてもらってたら一緒にやりやすい方法を考えたりもできたのになあと思います。業種問わず、そういう風潮になっていけばいいなと思うんですけどね。
アジア系の外国人の方も、見た目で分からないハンデをお持ちの方も、それこそ同じ制服を着て並んでいたらそんなことは分かりません。自分と同じような人だと想定して接しますが、言葉が通じなかったり、そもそも聞こえてなかったり、会話がかみ合わなかったり、接してみて初めて対処すべき問題に気が付きます。
そんな経験を多く経て、私は先入観を持たずに人と接するように努めるようになりました。私の言葉を、国籍か、フィジカルか、メンタルかのいずれかで理解できない人かもしれない、また私の説明ではわからない人かもしれない、私が当たり前と思う事が通じない人かもしれない、初めて会う人にはまず、そこをすべてフラットにして接しました。
ちなみにこれはのちに介護の仕事で役に立ちました。「障害には個性がある」という言葉に抵抗がある方は多いかと思いますが、これは障害がその人の個性の一部ということでなく、障害にはひとそれぞれ違った形があるという意味です。介護の勉強では、たとえば脳梗塞で右麻痺だとか立位が取れないとかいう設定で勉強することが多いですが、実際はそんな杓子定規的なものではなく人によってバリエーション豊かな形のハンデがあるのです。それこそ千差万別です。病名が一緒でも症状はそれぞれなので、病気の概念にとらわれるのではなく、その人自身をよく知ることのほうが大切だということです。
大変長くなってしまいましたが、振り返って書いてみて、私にとって工場で働いた数十年は、かけがえのない大切な時間であったとしみじみ再確認しました。
いろいろと、本当に色々ありましたが、今となっては心から感謝しています。
長い駄文をお読みいただいた方ありがとうございました。
次回もう一回だけ、工場の仕事に関する記事を上げて終わりにしたいと思います。
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