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「関係は部分的な尊敬の集合体」

(2022/03/23時点)

 「関係」について考えたきっかけは、幾度か「失望」の念がこみ上げてきたことにある。尊敬していた人が思わぬ言動をしたときに「もう尊敬できない(してはいけない)のか…」と落ち込んだこと(自分→他人)。今まで関わってきた人に「こんな人だったなんて」と失望されたくないと考えてしまうこと(他人→自分)。自分が考えたり人に言ったりしていることに反する言動をしたときに、色々理由をつけてなぜか容認してしまうこと(自分→自分)。など。

 僕は割と「尊敬する」という感情が湧きやすい人間であると感じている。関わる相手の尊敬ポイントを感覚的に見出すのは結構得意。(ときに、そのポイントに嫉妬している。いや、かなり。)それだけに、些細なことで自分が思い浮かべる”その人像”と違いが出てくることがかなり多かったし、自分がそういう風に思われるのが何より怖かった。僕がここで言っている尊敬ポイントというのも、所詮自分が最もされたくないことの一つであるラベリングに近いもので、それをしている自分に嫌気がさしてしまっていた。

 そんな僕を救いつつあるのが、「関係は部分的な尊敬の集合体」という考え方である。この発想に至るまで、尊敬した人が自分の理想から逸れたときに落ち込んでしまったり、自分も尊敬されている身でありたいと強く思うあまり身動きが取れなくなってしまったりということが多々あった。「思ってたんとちが〜う」って。かなり窮屈に生きてきてしまったなと感じる。でも、「尊敬」をその人全体として捉えるのではなくて、その人の中の一部分として捉えることでかなりスッキリした。自分で尊敬”ポイント”と言っておきながら、その人全体として考えてしまっていたのもなかなか滑稽である。

 こう考えることで「尊敬」が自分の中で「思い込み」や「理想像」ではなく、「好きなところ」に変わって、他人の言動に対して寛容になれた気がする。仮に僕のことを尊敬してくれている人がいたとしても、決して全面的には尊敬されていないと考えるほうが気が楽だ。

 僕がこれからも関係を築きたいと感じる人は、部分的に尊敬する人たちであって、全部を愛さなくたっていいいんだよなって。

 よし、これで心置きなく。

<今日の一曲>  あいがあって/王舟

#思考の整理

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