かわいそう
とは、あまり思わないんです。
かわいそう、と思うことって、高尚な"何か"に与えられている特権なのではないかと、思うんです。
よっぽど事象の背景や一部始終を目にしていたら別ですが、それってほとんどあり得ない。
(神、じゃあるまいし。)
目の前で泣いているひとが、アフリカで暮らす子どもが、彼女に振られたアイツが、あんなに頑張ってたのに負けたあのひとが。
その時点、瞬間だけならわかります。
かわいそうだな、と思えます。
どういう意味で、と定義されている場合も、まだ理解の余地はあります。
だけど、文脈と行間。
前後・内外・自他・自然・運命があっての人生だと思うので。
なにをもってして?
どの目線で?
そのように判定する必要は?
かわいそうの風呂敷を広げて包もうとしている人を見ると、どうしたって気になります。
なんで、そんなに他人事なんだ、と。
それに、その「かわいそう」が、この先どう転じるか誰がわかるのだろうか、と。
そして、無慈悲があるのは、世の常。
なので、無慈悲さからくる、痛みを自己の経験と参照しまくって、推し量ることまでは、僭越ながら、できます。
自分にだって、きっと。
ただ、個や少数の個の範疇で「悲劇的」と形容される状態になったとき、本当は、その個が1番分かっていると思うんです。
どうしてそうなったのか。
もし本当にわかっていなければ、関わっている人々との、周囲の人々からの、コミュニケーション不足ではないかと思うのですが……
これに関しては解釈に幅が必要かな、とも思います。
それが簡単にできることではない、ということに対して、反論どころか共感をする次第です。
簡単じゃないから、かわいそうだと思うんだ。
と、言われるでしょうか。
だとしたら、かわいそうだと感じる手前で、なにかできることはなかったのか。
できないほど、遠い存在だったら、かわいそうだと思ったところで、その思いは後付けして美化して昇華しようとしているだけの周囲の自己満ではないだろうか。
後でいくらでもかわいそうと言うくせに、肝心な時は手を繋いでくれない、そんな経験は、したことがないのだろうか。
ただ、僕は祈ることに、批判的なわけではない。
かわいそうだから、祈る、という人もいるでしょう。
でも、僕は、ただ、祈る。
自分の希望を押し付けるのではなく、ただ、祈る。
そして、歌う。口笛を吹く。
なんの解決にも、ならない。
これもまた、最悪の自己満である。
〈今日の一曲〉サンクチュアリ/笹川美和