見出し画像

私にはかつて姉がいた

私は東京にほど近い埼玉の出身で、産まれてから結婚するまで、ずっと同じ家に住んでいた。
両親が歳をとってから産まれた子供で、経済的には安定していて、地元の公立小学校ではそれなりに裕福な部類だったと思う。両親に対して子供らしい不満を抱えてはいたが、毒親ではなかったし、絶縁するようなこともなく、今も関係はそれなりに良好に続いている。
家族についてなんて、特筆すべき出来事は何もない。
そう思ってきたのだが、一つだけ思い出したことがある。

私には昔、姉がいた。
そう書くと、死んでしまったように聞こえるが、そうではない。おそらくこの世のどこかで生きてはいる筈だ。ただし、彼女はもう私の姉ではない。

姉に関する最初の記憶は、幼稚園時代まで遡る。
当時アメリカに住んでいた姉が結婚すると言うので、親族全員でアメリカに行った。私と、私の両親、父方の祖父母に、叔父や叔母。ロサンゼルスの空港で、色とりどりの風船と大きなクマの人形を抱えた女性が待っていたことを、朧げに覚えている。
姉、と呼んではいたが、両親からは本当は叔母さんなのだと聞かされていた。叔母さんだけど、まだ若いから、お姉さんと呼びなさい。そう言われていたのだ。姉と私は20歳離れていた。

アメリカでの記憶は途切れ途切れだが、宿泊予定のホテルの部屋に入るとテーブルの上にたくさんのフルーツが籠に盛られていたこと、チャペルの挙式では私もドレスを着せられて歩いたこと、花嫁姿の姉がまるでお姫様みたいだったこと、そんな断片的な光景が、今でもうっすら脳裏に蘇る。

姉は裕福なバツイチのアメリカ人男性と結婚した。仕事は持たず子供も居なかったのできっと時間を持て余していたのだろう、誕生日やクリスマスになると、アメリカから沢山の贈り物が届いた。姉からのプレゼントは高価なものでは無かったが、ぬいぐるみや髪飾り、おしゃれなシール、英語で説明の書かれた不思議な色のお菓子、そんなこまごまとしたものが沢山箱に詰め込まれていて、私はその箱を開けることをとても楽しみにしていた。箱の中には、私の日常にはないよその国の香りが詰まっていた。

小学5年生の夏休み、一人で姉の家に遊びに行ったこともある。
もちろん英語なんて話せない。英会話辞典を片手に空港を降りた。姉の家には来客用の部屋があり、部屋にはシャワーもトイレもついていて、狭い日本の自宅との違いに驚いた。ベッドは広くてふかふかで、枕がたくさん置いてあった。庭にはプールがあり、白いマルチーズを飼っていた。マチスという犬の名前を、姉はいかにも英語風の発音で「マッティス」と呼んだ。
姉はたくさんのところに連れて行ってくれた。本場のディズニーランドにはすごくすごく広くて本当にティンカーベルが飛んでいた。ハリウッドには有名人の手形がたくさんあった。ブーツにテンガロンハットを買ってもらい、ラインダンスを習った。幼い、幸せな甘い記憶。

中学に入り、本当のことを聞かされた。
叔母ではあるが歳が近いから姉と呼ぶように、と言われていた女性は、本当に姉だった。正確には、異母姉妹。父の過去の結婚相手との子供である。その時になって初めて、父も母も再婚であったことを知った。
父は過去のことは話したがらず、何故離婚したのか、いつ離婚したのか、細かいことは何もわからなかった。でも、私にとって、姉は姉だった。私の家には滅多に来ないけど、海外で幸せに暮らしている姉。甘いお菓子の家に暮らすような生活をしている姉。
別にショックは受けなかった。叔母だろうと、姉だろうと、優しくて遠い親戚の女性には変わりない。

高校になったころ、姉は離婚した。夫のアメリカ人が、どうしてもパートナーを愛せることができないのだという。彼は過去にも同様の理由で妻と離婚しており、姉はそれを受け入れたらしい。離婚した姉は、それでもアメリカに住み続けることを選択した。
その少し前から、姉からのプレゼントは来なくなっていた。

私の父は、私が24の時に心筋梗塞で倒れた。
就職して2年目だった。残業で遅くなった夜、母から父が病院に緊急搬送されたと聞かされた。友人の入院見舞いに夫婦で訪れた帰り、急に心臓が苦しくなったのだという。昼ごはんには大好きな鰻を食べたと言っていた。夜遅くに家に帰ると、母は病院に行っていて不在だった。父は危ないかもしれない。直感的にそう思った。
翌日、病院に向かうと医師から父は心筋梗塞だと聞かされた。集中治療室にいる父は、意識不明で、まるで別人のようだった。ベッドに横たわる父の姿を見て、こんなにも年老いていたのかと衝撃を受けた。母にお金の心配を掛けたくないから仕事がやめられないんだ、なんて言いながら、70過ぎても仕事を続けていた父。その父がはっきりと老人として私の目に映った。
目覚めるかもしれないし、このままかもしれない。覚悟はしておくようにと医師から言われ、母は取り乱した。私もショックだったが、もしもに備えて植物状態のことや、葬儀社について調べ始めた。母にとって子供は私しかいない。母が頼れないなら、私がなんとかするしかないのだ。

父の病状について知らせるため、久しぶりに姉に連絡をとった。姉は、今すぐ帰国はしないが、何かあったら駆けつける準備をしておくと行った。何かあったら。その何かは、父の死を示していた。

それから1ヶ月して、父は亡くなった。
日本に帰国した姉の第一声は「財産をどこに隠したの?」だった。冷たい表情の姉に、何を言われているかわからない。父が亡くなり、銀行口座は凍結された。元々大した財産もなく、それらを一覧にして姉に見せたのだが、姉は納得しない。こんなに財産がないはずがない、パパはたくさんお金を稼いでいたでしょう。こんなはずない、どこに隠したんだと、私と母を責め立てる。
激昂した姉は、更に恨みをぶちまける。父が私の母と再婚してから、実家の居心地が悪くなったこと。正月などに帰省しても、疎外感を感じていたこと。父が変わってしまったこと。ずっとずっと、再婚が嫌だったこと。私のことも私の母のことも、好きじゃなかったこと。

目の前が真っ暗になった。
姉とは少なくとも、歪みあってはいないと、思っていた。一般的な姉妹のような親しさのある距離感ではないが、お互いに最低限の好意はあるのだと信じていた。
だが姉はこれを機に私や私の母と縁を切りたいと告げた。

財産分与は、法律に従って行われた。
数回の話し合いや口座の状況を調べてもらい、姉にもようやく財産を隠していないことを理解してもらえた。父は遺言を残していなかったので、財産の半分を母が、残りを子供で分割して相続した。

私は父を失い、同時に姉を失った。
当時はそのことを悲しみ、姉のことを憎んだ。なんでこれまでの関係を否定するようなことを言うのだろうと気持ちの整理がつかなかった。だが時間の経った今、姉には姉の事情があったのだと思える。
姉のことは恨んでいない。可哀想な人だと思う。でも、私の楽しかった姉との思い出は、姉の消失とともに失われた。

アメリカには、その後一度も訪れていない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?