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自分業を目指す根底にはタイパ主義がある

自分業というワードが、私のまわりで注目を集めている。
自分業とは、自分の強みを活かして、自分らしく働くこと。自分をコンテンツ化して、ファンビジネスなどを行い利益を得ること。私はそんな風に受け止めている。

以前のnoteの記事で、自分業を誘う講座は女性が心を動かすように作られたまやかしの商材であり、そもそも働き方はお金では買えないことや、なぜ自分業が魅力的に感じるのかを自分なりに分析してみた。
今回は、何故30代ワーママ(実際は30代ではないこともあるだろうが、便宜上そう呼ばせてもらう)が自分業を目指してしまうのかを考えていきたい。

◾️何ものかになりたい人々


自分業が話題になる以前から、「何ものかになりたい」という人は一定数存在していた。
私の亡くなった父もそうだ。私の父は比較的若くして中小企業の経営者となり、引退後も顧問として働き続けて、死ぬまで一定の収入を稼いでいた。上を見ればキリがないが、実家の後ろ盾などのない普通の会社員としては、それなりの成果を残せたように思う。
だが、父は仕事が落ち着いて時間ができてから、それこそ自分業を目指していたように見えた。写真や水彩画など、大して好きでもない趣味を始めては、うやむやに立ち消えることを繰り返す。作品が溜まったら個展を開きたい、とにかく何か自分の名前で世に出たい、そんな発言をしていた。だが結局自分業で大成することなく、この世を去った。
その様子は今思い返すと、自分業を目指して自分の特技を頑張って探そうとするワーママと非常に近しいように感じる。特定のやりたいことはないが、何ものかになりたい。そのために、好きなことや向いてることを見つけようと、もがいていた。

一方、私の母は趣味で20年以上ボタニカルアートを習っている。長く続けていることもあり、私から見てもかなりの腕前だ。そんな母に対して、先日機会があったので、「絵で名を上げたいと思わなかったのか」、端的にいうと自分業に興味はないのかということを質問した。
答えは、ノー。そもそも自分の画力はまだ名前がどうのこうのというレベルには達していないので、自分が満足する絵を描きたい気持ちが先にあるとのこと。また、絵が好きで見る目が養えているからこそ、自分の絵について客観的なレベルが理解できるとも話していた。

この二人の差がどこからきたのか。
「何ものかになるために絵を描こうとしていた」父と、「絵を描くことそのものが好き」な母。その違いは、役に立たないことを全力で楽しめるかどうかなのではないかと私は考える。

父はビジネスマンらしく、いつもコスパやタイパを気にしていた。本もあまり読まず、趣味と言える趣味もなかった。だから、「ただ好きだから何かをやる」という素質がそもそもないように見えた。父の行動の動機は「何か役立つことをしたい」だ。
一方、母は父と結婚してからは専業主婦だった。時代もあるし、立場もあるだろう。だがそれ以上に行動の動機は「好きだからやる」「楽しいからやる」がベースになっている。だから、仮に短期的に見て役に立たなそうな事でも、全力で楽しめるのだ。

私はそんな両親に育てられ、両方の要素を引き継いだ。役立つことも、楽しいことも行動の動機になりうる。別にどちらが正しいとか間違っているとか、そういう話をしたい訳ではない。だが、ふと自分業を目指すワーママは、役立つことを指向し過ぎているのではないかと思ったのだ。

■無駄なことをしないように生きてきた世代

私と同年代、あるいは少し下の世代は、物心がついた時にはバブルが弾けていた。将来を考え始めるようなタイミングで東日本大震災を経験した年代の人もいるだろう。
とにかく、明るい未来が見えない。そのせいで、堅実に無駄なく生きようとする気持ちが強い。結果として、無益そうな時間を使うことに抵抗がある。

例えば本を読むとして、この本は何の役に立つのか。読むために必要な時間とお金に見合った対価は得られるのか。他の趣味に関しても同じだ。ダイパはどうか。コスパはどうか。何が得られるのかを常に意識する。だから、役立つ趣味に人気が出る。整理収納アドバイザー。インテリア。子育て。料理。資格取得。趣味と実益を兼ねられるものばかりだ。趣味だけでなく、家事の時間や通勤時間も無駄にしたくない、付加価値を高めたいので、音声配信で役立つ情報をインプットしていく。そして行き着く先が自分業なのだ。

役立つかどうかを意識しすぎると、無駄なことに時間を使えなくなる。ただ楽しいだけの趣味を心から楽しめない。だから、仕事自体を楽しくしようと考えてしまう。趣味を楽しむ様に仕事を楽しめるなんて最高ではないか、という思考に行き着く。
自分の好きを仕事にすると、毎日の日常がコンテンツになる。自分の考え、発信がお金になる。生きて、生活して、全てがお金になるとしたら、こんなにコスパやタイパの良い生き方はない。だから、わくわく働けて、人生そのものが換金できるような気がする自分業を魅力的に感じてしまう。

だが、例え好きなことを仕事にしたって、フリーランスになったって、価値を感じられない作業、楽しくない作業は発生する。例えば、仕事の打ち合わせを散々重ねた後で案件が失注する可能性だって大いにある。それはコスパやタイパの観点で考えると無駄な時間だろう。案件の獲得、受発注、経費精算、年末調整、そんな作業は誰か得意な人がやってくれた方が効率的だと感じるかもしれない。
そう思うと、考え方によっては会社員の方が分業の分、自分の得意な仕事に注力できている可能性すらある。また、会社の仕事で自分らしさが発揮できなくたって、仕事をそこそこに趣味を楽しむ人生だって十分に魅力的だ。

それでも、挑戦したいと思っている仕事そのものが好きで価値を感じるのなら、それは幸せなことだと思う。だから、もしやりたいことが明確にあって挑戦したい人は、挑戦すればいいだろう。人生は一回きりだ。やりたいことはやった方がいい。ただしリスクを受け入れられること、そして一番重要なのは、そのやりたいことは本当に自分の意思でやりたいと思っていることかどうか。何でもいいから何かをやりたいという心の隙間に漬け込まれた、まやかしのやりたいことではないかを、真剣に見極める必要がある。

■役に立つという価値観は本当に必要か

ところで、一見役立たないことに時間を使うのは本当に意味がないのだろうか。そう感じるとしたら、それは何故か。無駄、価値がないと判断するためには、目的を設定する必要がある。例えばあなたが関東に住んでいたとして、北海道に行くという目的があるのに大阪に立ち寄ったら、それはおそらく無駄な行動だろう。別れた彼氏のことを忘れたいのに何度も写真を見返してしまうのも、多分無駄だ。それは、どちらも目的に反するからだ。

では人生の目的とは何だろう。少し話が壮大になりすぎてしまったが、ここを設定しないと無駄かどうかは判断できない。人生の目的は多説あり、何が正解とは言えないが、私は一つの答えとして「ただ生きること」だと思っている。お金を稼ぐことでも、後世に名前を残すことでもなく、生きていることそのものが目的である、という考え方だ。

生きていることが目的だとすると、これに反するのは死のうとすること、それ以外にはない。だとしたら、直接的にお金が増えないことだって、自分が楽しめているなら十分にプラスではないだろうか。この視点を持つと、一見役立たないことに時間やお金を投下することに罪悪感がなくなる。

大人になると、どうしても無駄なことへの資本投下はためらいがちだ。でも、誰しも子供時代はもっと自由に楽しめていたと思う。役に立つとか、お金が稼げるとか、みんなから認めてもらそうとか、そんな価値観ではなく、もっと自由に自分が楽しいかどうかで判断できていたはずだ。その気持ちを失ってしまった人は、もう一度取り戻してみてはどうかと思うのだ。

勿論、役に立つという価値観も社会を生きる大人としては必要な軸だと理解している。それがないと社会は崩壊するだろう。だけど、個人の生き方までもが役に立つという価値観に縛られすぎる必要はない、そう思うのだ。

■自分の楽しいを見つけよう

私はごく普通の会社員だ。平日は会社の仕事をして、家事をして、子育てをして毎日が終わる。日々の楽しみは、本を読むこととお酒を飲むこと、ときどき文章を書くこと。どれも役には立たない。でも私の日々に彩りを与えてくれる。また明日も一日生きていてもいいかなと思える。それで十分じゃないだろうか。
だからと言って、私が無欲な人間かというと、全くそんなことはない。お金は欲しいし、出世はしたいし、何ものかにだってなれるならなってみたい気持ちはある。こうやってnoteで発信しているのだって、誰かに読んでほしいからだし、話題にしてもらえたらとても嬉しい。
だけど、数回書いただけのnoteの記事で爆発的に人気が出て何ものかになれる、みたいな幻想は抱いていない。収入が増えるのだって、何ものかになるのだって、日常の積み重ねがあり、その結果としての状態なのだと理解しているからだ。

自分業を志して迷っている人、悩んでいる人がいたら、まずはタイパ至上主義を捨てて、目の前の楽しみを見つけてみたらどうだろう。もしかすると、目の前に広がる景色が、少し違って見えるかもしれない。

おわり

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