ZCONを振り返ろう
私の初めて参加したインタラクティブライブZCONから1年ということで
当時のことを振り返ってみたいと思う
インタラクティブライブ ZCONは年度末、業務量の修羅場の中敢行された
月の残業が45時間を超えてくるとヒラサワの文章が読めなくなってくる
悲しいことに5回読みましたね?に対応できる気力がない
そんな日々が長いこと続いていた
ヒラサワと真正面から向き合うということは、とても、体力と気力がいるのだ
(というか、ヒラサワは真正面から向き合うつもりもない人にはわからないように言葉を操っているように思う)
ZCON前はフジ会然TREK参入組の私にとって
これまで経験したことないくらい界隈が殺伐とした空気になって
そのままライブ準備期間に雪崩れ込み定時ツイートは途絶えた
ヒラサワは手も届かない(届きたくない)圧倒的アーティストでありながら
少しだけ日常に浸み出してくる「隣人」のような側面もある
隣人のように思ってしまうのは間違いなく毎日定刻のTw(hz)の影響だろう
当時の状況は私にとって誤解を恐れず平たく言うとこうだった
毎日同じ時間に現れる自分が気にしている人が何かを訴えている
その真意を読み取ろうとしても本当のことなどわからない
自分なりに解釈してはいるが、相手はいかようにでも読み取れるように書いている
その一方で自分が思っているように読み取られないことにうんざりしているように見える
明らかに不満げであることははっきりと伝わる
この状態って、かなりストレスではないだろうか?
私は途中から、
なんか言いたいことがあるなら頼むからハッキリ言ってくれよ
みたいな気持ちでした、正直
定時ツイートがなくなると、毎日現れる「隣人」的要素は一気に影を潜め、
反動もありヒラサワは存在するかどうかもわからない
人一倍手の届かないアーティストになる
今回はそこに加えて、精神面の「断絶」みたいなものが横たわっていた
そんな状況下で迎えたZCON初日、
ただただライブを見にきたということに加えて
一部の馬骨は「断絶」をそれぞれ見にきて
この溝は埋められるものだろうか?
もしくは、埋められないとしても、
溝の意味がよくわからなくてもここにいられるだろうか?
と確かめに来ている側面もあるライブだったように思っている
ヒラサワは一体何を考えてるんだ?
それを受けて私はどうなるんだ?
ただ楽しみというのとは別のベクトルでそんな緊張感を持ちながらライブに臨んだ
私を含めそういう方が多かったのではないだろうか
(ライブの内容やヒラサワ、いや議長のCOLD SONGのギターソロに入る時の顔があまりにもセクシーすぎて何もかもどうでもよくなりそうになったことは今回書きたい内容の趣旨とズレるため割愛する)
今回初めて参加して、インタラクティブライブとは平沢進の活動の原理にとって何と巧妙な表現手段なんだと感動した
我々がライブの間中ずっと考えていることといえば
成功ルートの達成=ヒラサワが何考えてるのか?どうありたいのか?
である
相手の思考の中に入って想像することはコミュニケーションの大原則だ
ヒラサワがP-MODELの頃からこだわった「コミュニケーション」を通じて
自身のアルバムの解像度を上げるのがインタラクティブライブなのだ
やってることと活動の目的が昔からブレてなさすぎて
もはや感動を通り越して恐ろしい
ヒラサワはどうありたいのか?に思いを馳せ、
ヒラサワには自分が思い描く理想の世界があって
そこでずっと誰かたどり着くのを待ってるんだなということもひしひしと感じた
それはきっとインタラの時だけじゃなくていつもそうで、一体どんな気持ちなんだろうかと思った
その場所のことなんて普通考えもしない人への苛立ちと落胆、
それでも希望を持ち続けているから平沢は活動を続けている
今に始まったことではない、待ちわびた也!と昔から言っている
正解を知りながら、舞台上で何も言わずオーディエンスのただひとつのアクションを待つヒラサワを見ながら
どれほど孤独なことなのだろう、と思う
馬骨はインタラクティブライブという形式の中でヒラサワと対峙し、
頭から湯気が出そうになるくらい追い詰められながら、
ヒラサワが見せたい世界を理解していく
そういう努力の上に成り立っている関係性は
やっぱり他のアーティストではあんまりないように思う
ヒラサワと真っ正面から向き合うのには
本当に気力と体力を使うのだ
せっかくの土曜日のお昼時に成功ルート達成への緊張で胃を痛め、頭を抱えながら
楽しみなはずの千秋楽を神妙な面持ちで迎える集団が一体他のどこにいるだろうか
隣接する商業施設のBGM、デジタルサイネージなどの全てが平沢進に特化した空間
寝ても覚めても平沢進のことを考える2日間は、
学生の頃の合宿のようなストイックさを持った異様な、
忘れられない特別な時間だった
私は先述の通り
言いたいことがあるならハッキリ言ってくれよ
と、思っていた
その望みは笑ってしまうほど簡単に叶った
ヒラサワは初日の超バッドエンドルートで、道化師の声になって
オマエタチ見てるとイライラするんだよ、と言った
(私は勝手に、選択肢の流れから見て
私の機嫌を伺うみたいに、自分の頭で考えないでそれっぽい選択肢に飛びつく、
自分の可能性を信じてないオマエタチをみてるとイライラするんだよ
と脳内で補完した)
ヒラサワはΣ-12を通して大画面で言った
いつでも「それとも」を持ち歩け 大馬鹿者め
イライラするし、大馬鹿者だと思っていた!
ハッキリ言ってくれよ、とは思っていても
こんなに清々しいまでにハッキリ言われると面食らうものである
21時から1時間インターネットを隔ててヒラサワと向き合っても
絶対にこんなにわかりやすく教えてくれない
ステージ上に確かにいるヒラサワからの本音の出血大サービスであった
ライブが終わり、
他には誰も考え付きもしないことをやり続けるヒラサワからやっぱり目が離せない
というのが私がたどり着いた答えだ
たとえそこに溝があったとしても、失礼なことはしないから見ていたい
と、いうのはダメだろうか?
誰に聞いているかわからないが時々そう思う
が、もしダメと言われてもこっそり見てしまうだろう
ZCONを経て、そういうことに決めたのだと思う
平沢進という私の人生に現れた「謎」の研究を続けることに
引き続き、気力と体力を使っていきたい所存である