2024年10月3日を終えて
2024年10月4日 16時
いつものようにNPBから公示が発表された。
"出場選手登録抹消"
これで もう登録されることはない。
僕の尊敬する ひとりのプロ野球選手のプロ生活に幕が下りた。
入団は2016年、つまりは2015年ドラフト組だ。5位指名を受けて日本大学からスワローズに来てくれ、新入団会見では上手の特等席で つば九郎さんの可愛がりを受けた。
173cm 68kg(当時 ※2024年のデータは174cm 74kg)小柄だが走攻守バランスが取れていて、高いミート力と俊足で開幕から期待できる のような球団のコメントが出ていたと思う。この後どんな風にプロ野球選手としての積み重ねをされていったか、僕より詳しく教えてくださる方が沢山いらっしゃるし、僕自身は当時 野球から離れていたので、書き記すのはやめておこうと思う。それでも心と頭を整理するために一昨年くらいから振り返りたい気持ちがあるのだけれど、とてもとても長くなるので ここには今年見て感じたことを書き残しておく。
今年最初に直接確認出来たのは、2月3日の戸田球場やった。初日から行きたかったが、3月後半と真夏以外の平日の昼間動くのは難しく、3日の土曜日にやっと行けたのだ(ほっ)。なので1月後半の戸田での自主トレも行けなかったし、勿論松山自主トレも行けなかった(その時の お写真や動画を流してくださった皆様には今一度、この場で申し訳ないのですが お礼を お伝えしたい気持ちです)。
2月1日、西都キャンプ組は戸田球場でキャンプインした。ちょっとびっくりやったけん、西都に行けない予定やった僕としては大変ありがたかった。ただ、悔しさと寂しさの方が大きく、怪我あったしな…慎吾くんと一緒で自分で調整できるやろ、後輩の挨拶指導等々も宜しくねって事よね…と何度も何度も自分に言い聞かせた。敢えて口に出したりもして、浦添でない理由を勝手に決め頭と心を落ち着かせた。
9時30分、慎吾くん、明央ちゃん、ケリーくんと共に戸田球場に現れた姿を見て、泣いてしまった事は秘密だ。ミズノの紫のリュックが とても似合っていて(バットケースより青みがかった紫?一緒?で好きな色が緑と黄色と紫の僕にとっては最高なのである)、足元はオレンジのスニーカー、YSロゴの入ったキャップを浅被りし(前髪で大興奮)、パーカーのお腹のポッケに両手を突っ込んで歩き出したその姿がほんっとにかわよくて(ごめんなさい)、よく覚えている。
荷物を置いて次に現れた全体でのアップ時には しっかり深くキャップを被ってきたけれど、スタッフさんを見つけてはキャップを取って御挨拶を何度か繰り返していた。今までの野球人生で何度もおこなってきたであろう挨拶は、しっかり体と心に染み付いているようだった(皆様ご存知かと)。
ストレッチは慎吾くんの隣(というより左斜め後ろで1番端)で丁寧にされていた。いつもと少し違う動きがあって、あまりの柔らかさに こんなに柔らかかったっき?とドキドキしたんだった。うんうん。ひとつ気になったのは表情が少し堅かったことだ。少なくとも僕には そう見えた。まぁ、晴れているとはいえ当日は2月の初旬、表情は寒さのせいやったのかもしれない。
キャンプ初日の声出し動画はアップされて直ぐ見ていた。おっきな声での挨拶のあと、怪我のこと、健康であれということを話していたと思う。動画に対してのSNSでのファンの反応は、わいわいと楽しそうなものやったと記憶している。僕は その動画を観た後とても複雑な気持ちやった。朝の挨拶のあと「二軍キャンプ2年目の…」から始まった声出し。「昨年の怪我の筆頭に塩見と僕…」と続いた。深い意味は無かったのかもしれない。監督が怪我人が多かった話をしたけん、自分たちをネタに話を広げたのだろう。さすがの回転の速さと気の利かせ方だった(この能力は10月3日 更に発揮されたことは記憶に新しい)。ただ、その初日の声出しは、僕の頭と心をフリーズさせるものやった。
2023年の年末に「今が1番コンディションがいい 絶好調だ」と仰っていた。松山の自主トレでも、動画を見せていただいた限り(馬場ちゃん ありがとうの気持ち)ティーやトスバッティングの調子が良さそうやった(その後の西都での別メニュー調整は苦しかったやろうと思う)。僕としては西都スタートは覚悟していたけれど(理由は幾つかあるけん、ここには書かずにおきたい)、やはり悲しかった。本人の声出しを聞いて、悲しさと悔しさが更に上乗せされた。
浦添組が東京に戻ってきて最初の試合だった3月13日(12日は雨中)も、16日からの神宮にも姿はなかった。17日の戸田の声出しやったことは確認できている。そのとき僕は神宮にいた。2024年はMLBの動きによっては宗さんがラストイヤーになる可能性があったからだ。今年は宗さんの応燕に全力を注ぐ気持ちだった。その気持ちと行動について後悔はしていない。
3月6日の教育リーグの日に姿が見れるかもと戸田へ行ったけれど雨中になり、片道2時間半の道中をしょんぼりしながら帰った。その後の週末は戸田で試合だったのに僕は仕事やった。心ここに在らずの時間が多く、一緒に働いている方々へ迷惑を掛けたかもしれない。2月3日以降 直接見ることが出来ておらず、心が落ち着かない日が続いていた。
久々に直接応燕できたのは3月22日のロッテ浦和球場で、久々すぎて緊張で堅くなっている自分がいた。そんな僕の状態を察したかのように(んなわけない)ケリーくんとの いちゃこらを見せつけ、客席ギリギリの金網の近くを歩いてくれた(本当近いからロッテ浦和は直視出来ん)。僕の冷え切っていた身体は いつの間にか温まり、応燕に来れた喜びに満ちていた。この日は2番レフトのスタメンやったと思う。5回の3打席目まででヒットは出なかったけん、フォアボールで出塁したし、打席での力強さが見えた(チームは大差で勝てなかったけどね)。
翌日は雨が懸念されて浦和に行かなかった(直接ベルドへ向かってしまった)。これが今年一後悔していることだ。2番ライトのスタメンで出場して5回に回ってきた3打席目でライトへの犠牲フライを打ち打点がついた。行かなかった自分を悔やんで恨んだ。雨は結局あまり降らず、チームは前日のやり返しをした日となった。ただ、打点はついてもヒットが出ておらず、この頃の僕は毎日ひたすら祈っていた。それと同時に、5回で交代になる事への不安を抱いていた。コン不は続いているのだろうか…とても心配やった。
今シーズン最初にヒットが見れたのは3月27日の戸田球場での巨人戦、4回の先頭打者でライト前を打った打席だ。3回も先頭打者やったけん、確かショートゴロやったと思う。3回はスワローズがツーアウトから猛攻を仕掛けて9番のケケまで回ったおかげで、次の回も先頭打者で回ってきたってわけだ。その打席は、"らしさ"を見せてくれた。ボールの見極めとファールで粘り、7球目をライトへしっかり打ち返した。僕は めちゃめちゃ嬉しかった。そしてこの日は7回まで守備についており、不安で祈る気持ちに変わりはなかったけれど、少しほっとしたんだった。
3月、ファームには3試合しか応燕に行けず、あっという間に2024年のペナントが開幕した。
開幕後もファームで調整が続いていたのだけれど、僕の4月の観戦は2試合と自分としてはかなり苦しい期間を過ごした。平日の昼間は動けなくなる時期に入っており、週末も仕事と重なっていた。神宮に来てくれたら、平日でも夜やけん直接応燕できるのに…毎日祈り願う日々を暫く過ごした。
5月に入り、前半はスカスタと戸田へ何とか3回応燕に行き(この頃は哲人くんがファームにおって、一緒ににこにこご出勤する姿に きゅんとしてた)、雰囲気は良いし そろそろ上がれるのでは?と感じていたところ24日に やっと出場選手登録され、バンテリンの中日戦に1番ライトでスタメン起用されていたと思う。仕事でリアタイ出来んかったけど、確か6打席回ってきて無安打やったと記憶している。その日は7番センターでスタメンやった先輩 遥輝さんが猛打賞で、きっと何か言われたやろうなーって想像したりした。そしてこの日は遂に遥輝さんと一緒にグラウンドに立った記念日で、その事に僕は大興奮していた。心臓が ぎゅっとなり、目から汗が溢れた。とても嬉しかった。ヒットは出なかったけん1試合目やったし、その頃の僕は ここからよって思ってた。本人やって そう思っていたハズだ。けれど、その次の日もスタメンやったけんヒットが出ず、26日からは控えに回ったんじゃなかったかな。
28日、神宮での今シーズン最初の姿を見ることができ、今年のクルユニが とても似合っていたことを思い出す。キャップには今までの形とは全く違う新しいサングラスをかけていて、度が入っているのか、そのサングラスを顔に近づけた直樹くんが驚いて目をしかめる反応をした瞬間を見逃さなかった方も沢山おったと思う。このサングラスは この後あまり見かけなかったけれど、前向きに努力されていた証やと思っている。
今シーズンの一軍初安打は僕の記憶が確かならば5月31日の楽天戦やったと思う。9番センターでスタメン出場、場所は福島。僕は仕事中で、気になって気になって仕方なく、隙を見て抜け出して速報を確認したら 丁度ヒットを打った後で、しかもタイムリー!"開幕おめでとう"って呟いた覚えがある。そして、めちゃめちゃ嬉しかったと同時に、直接見れんかった悲しみに襲われていた。
東京に戻ってきた後は代打で送りバントをきっちり決めたり(6月7日の延長では1球で決めたっけなぁ)代走で出る試合が続き、チームプレーに徹する僕の尊敬する彼の姿が そこにあった。一軍の試合に先発で出ているところを直接見て応燕したいと思っていたけれど、その後 僕がスタメン出場とヒットを見る機会が訪れることはなかった。つまりは神宮でスタメンが無かったのだ。その頃の僕は、とても苦しく悔しい気持ちで日々をなんとか過ごしていた。本人はどう思っていたのだろうか? 打席で苦戦していたこと、きっと悔しかったに違いない。6月は確かPayPayで1試合、マツダで1試合スタメン機会があり、マツダの第一打席でヒットを打ったと思う。後に これが一軍ラストのスタメンとヒットになるなんて、その時は思いもせんやった(記憶違いならスミマセン ※なお10月3日以外での話)。
東京に戻ってきた後は、ハマスタ3連戦を終えた7月5日に抹消されている。
7月のファームは弘前や森林の燕征と試合が無い日が多く、戸田に行けたのは自分の誕生日と我が母の誕生日の2回だけだ。自分の誕生日に球場に居れたのは初めてのことで、穏やかな時を過ごさせていただけた。とても幸せやった。その日は僕が1番好きな打順と守備位置の2番センターでスタメンなのが とても嬉しかったけれど、何よりも望んだことは、どうか今日も怪我なく試合が終わりますようにということやった。いつの間にか、それが僕の1番の願いになっていた。その日は3打席目でレフト前ヒットを打ってくれ、出場は5回までやったけんプレゼントをいただいた気分やった(本当にありがとう)。
ファームに来てから、7月はスタメンでフル出場する日がでてきていた。バッティングの調子が上がってきていて、マルチ安打の日もあった。けん、そんな中 僕は走塁に少し不安を感じながら観戦する日が続いていた。盗塁を仕掛けようとする走り出しが気になった。怪我の影響なのか、年齢を重ねてのことなのか、そもそも走り出しを変えたのか…今でもわからないでいる。
守備でも気になることがあった。守備位置に着いた時、必ず後ろを振り返り外野の壁との距離を確認するのだけれど、その回数が格段に増えたように見えたのだ。投手が投球する毎に確認していたのではないかと思う。とても大切な行動だけれど、昨年までとは違う何かを感じた。
今年の夏は日本全国どこも暑かったと思うけれど、8月の戸田球場は危険を感じる程の暑さの日が多く、デーゲームのファームは陽射しが皮膚を刺し、座って見ているだけの僕でも厳しいと感じる日が殆どやった。ファームに沢山出ている選手やスタッフさんたちは皆真っ黒に日焼けしており(濱ちゃんは別)、試合はクーリングタイムを取り入れておこなわれていた。8月2週目になり、やっと平日の昼間も動けるようになった僕は、ファームに行けるだけ行きたい、行けるだけ行かなければ…という気持ちで日々を過ごしていた。それでも仕事と重なったり燕征ができず、行けたのは14試合だ。もっと調整をすれば16か17試合は行けたかもしれないのに…悔いが残った。
それから8月は お誕生月だ。お誕生日はハマスタと戸田で試合が組まれており、大切な お友達たちとハマスタに応燕に行く計画を立てていたけれど、それは叶わなかった。僕たちの願いは打ち砕かれ、悲しみに襲われた。それでも戸田で試合があるし、スタメンなハズ(本当は前日までの出場の感じでは もしかしたら お休みもあるかも…と危惧してした)と気持ちを切り替え、いつもは着ないユニを着て(普段グッズも着けず、目立たないよう主張しないように過ごしています…)いっぱい応燕するぞと強い気持ちで当日を迎えた。その日 皆んなで わいわいと応燕できたことは とても楽しかったし、勝手に お誕生会を開催して いつもと違うテンションで過ごした事は ずっと忘れないと思う。僕の変なテンションに優しく付き合ってくれた おとももちに今一度ここで お礼を伝えたい。皆んなの優しさに感謝しています。ありがとうございます。
8月11日の お誕生日当日は1番DHスタメンやった。正直 守備が見たかった僕としては残念な気持ちやったけん、お誕生日に試合に出ている姿を見せていただけることに感謝した。打席は4回まわってきたんじゃなかったかなと思う。ヒットは出なかったけん2回フォアボールを選んで出塁した。3回裏のフォアボールの出塁では、2番の ちょも君がツーランホームランでホームに返してくれて盛り上がった。今シーズンの試合中、戸田で1番 声を出して戦っていた後輩くんを、優しく且つ誇らしげに迎える姿が心に残っている。この日は最後までスコアボードに名前があり、それも とても嬉しかった。試合を終えて寮に戻っていく後ろ姿を見送りながら、今夜お祝いしてもらえるんかな?好きなもの沢山食べてよねーって心の中で お伝えした。翌日はカーミニークでの試合が控えていたので、お祝いするとしても その日はきっと慎ましくされるやろうと思っており、どうか にこにこの夜をと願った。
8月13日 灼熱のカーミニーク2日目はファームにノリくんの姿があった。その日は2番センターで、ノリくんは3番DHでのスタメン。試合前に並んで素振りをする様子は、ファームでは感じたことのない厚みのある空気を漂わせており、僕は その雰囲気に釘付けやった。暑さからきていたのかもしれないが、大気がオーラで揺らいでいるように見えた。いつかそのポジションを奪いたいと、プレースタイルは全然違うなか試行錯誤して追いかけた背中と共に、その日の試合に備える姿は応燕の気持ちを更に強くさせた。この日も最後まで名前があったこと、ヒットが出たこと、ノリくんと過ごせたことは良き時間となったのではないだろうか。
翌14日はカーミニークの入場を1番乗りで待っていたのにQRが反応してくれず、とても焦った。結局10分以上遅れてスタンドに入れ、最初に目に飛び込んできたのは外野の壁沿いを黙々と走る姿やった。他の選手たちは一塁ベース辺りでストレッチをしており、ひとりだけショートからロングへ移行するランを何本も繰り返していた。その姿を思い出すと今も胸が締め付けられる。その日は1番センターのスタメンやった。その日の どんよりとした空模様がそう思わせたのか、昨日とは違ったずっしりとした空気が流れているように感じた。結局その日はノーゲームとなり、他の選手と違う経路で雨のグラウンドを ひとり引き上げて行く姿を見えなくなるまで見届けた。重たい空気を纏い、心につっかえものをしたまま僕は神宮へと向かった。
8月21日のCREW DAYではスタメンのノリ君と交代した8回裏でヒットを打っている。3、4、5球目のストレートをファールにした後、6球目のストレートを打ち返した。この日も偉大な先輩に しっかりと積み重ねてきたものを見せることが出来たのではないかと思う。その後8月最終週はビジター続きで、スカスタ3連戦は3日とも不安定な天候ながら、無事開催された。晴れから一転 土砂降りの通り雨という時間が何度もあり、晴れ間の中に時折り見えるグレーの空模様が、この先の僕のメンタルと重なったことは ずっと後になって気付くことになる。
スカスタの先発投手は、昇くん、カツオくん、ライアンという相手チームのファンも驚く面々やった。僕は複雑な気持ちやったけん、スワローズを代表する投手たちに"コンディションよ上がれー"っと祈り願いながら応燕した。
27日は試合に出ることはなかったけれど、キャッチボールの相手になったり、ベンチでの声出しや後輩くん達を讃えたり鼓舞したりと忙しくされていた(そりゃそうw)。試合後半になると、代打の可能性を考えてベンチ裏へ行ったり、戻ってきてもバットを持って立っており、いつ代打を言われても大丈夫なように備えていた。"チームの事を誰よりも考えて動くいつもの姿"がそこにあり、スワローズファンなら見慣れた行動ではあるのだろうけれど、今まで何度も見せていただいてきた その姿に僕の心は揺さぶられ、惹き込まれ、ただただ視線と心は彼だけを追いかけていた。
28日は3番センタースタメンやった。第1打席は空三やったけん、第2打席でセンター前ヒットを打ったと記憶している。その日はスコアボードに最後まで名前があり、とても嬉しかった。試合中は、常にベンチの指示を確認し、ケリーくんとカズヤくんに伝えていた。ただ伝えるだけでなく、いつものように盛り上げ、コミュニケーションを取る姿はFor the teamの精神と後輩達を引っ張っていく お手本になっていたと思う。この姿を見せていただけることが、僕には何よりも力になる幸せな時間やった。
3連戦の3日目は3番DHのスタメン。守備が見れないのは寂しかったけれど、真夏の過酷な環境の中、休みなく球場に居続けてくださることに感謝した。打席は苦戦していたと思う。犠牲フライが一度、他は確かゴロかフライアウトやった。そしてこの8月29日、僕は今まで感じたことのない感覚に襲われ、それがずっと心にひっかかっており、1ヶ月半経った今も まだ引き摺っている。
"どうか長く"確かXで そう呟いたと思う。その日はBGMがあいまって、僕は試合前練習からセンチメンタルな空気に支配されていた(ベイさんのBGMはツボなんですよね)。ただ、それはBGMだけがそうさせたわけではなく、僕の心と視線の先にいる彼の雰囲気が そうさせたのだ。その日は試合前練習から いつもと様子が違っていた。具体的に何が違ったのか?と聞かれると いい具合の言葉が出てこない。でも、僕には違うように見えたし、そう感じたのだ。僕の心臓は締め付けられたまま緩むことなく、カメラ越しに見た様子は切なさや寂しさ、そして苦しさのようなものを見つけていた。あれは気のせいやったんか、彼の体調にとって難しい気候やったと思うので その影響があったのか、それとも彼の心に秘めている何かが滲み出ていたからなのか、確認したいとは思わないけれど これから自分なりの答えを見つけることが出来たら少しは心が落ち着くだろうか。僕の上空はグレーの空模様のままだ。
9月に入っても暑さが和らぐ気配どころか更に厳しく感じることが多く、ファームは相変わらず過酷な日々やったと思う。4日、鎌ヶ谷スタジアムに向かった僕は、ノリくんとバッティングの話を丁寧にする その姿を じっと見つめていた。センチメンタルに襲われた8月29日に感じたソレは そこには無く、今までより更に 直向きにバットを振る真っ直ぐな彼を見つけ、目からの汗を堪えた。一軍に上がろうと前を向く強い気持ちが見えていた。
野球ファンは8月後半から心がザワつき始めるのではないだろうか。今シーズンの僕は、スタートからそれがずっと頭と心に居続けたのだけれど、9月初旬の山を越え、プラスしてノリくんとの時間を見て感じた その雰囲気に正直ほっとし、来シーズンのスタートがどうなるのか…それをハッキリと考えるようになっていた。今となれば、この時の自分に完全に喝である。
9月13日、背中を追いかけ続けた存在であり、ライバルであるノリくんの引退が発表され、会見がおこなわれた。その頃の感情を島村さんにこう話している。「これからもっともっとうまくなって、もっともっと成長した姿を見せられるようにやっていけたらと。引退試合までになんとか一軍に上がりたいですね。」
13日は3番レフトでスタメンやった。僕は戸田の予定ではなかったけれど、ありがたい事に予定が かなり早く終わったので、急いで武蔵浦和行きの電車に乗った。第一打席で内野安打、第四打席でタイムリーを打った姿を見せてくれ、何とかして上に行こうとしているんだと感じた。その日僕が感じたことは、10月2日の島村さんの記事で間違っていなかったと教えていただけた。
それから13日後の9月25日の早朝、その時の言葉と真逆の報道がSNS上に流れてきた。僕が起きて1番最初に目にした記事やった。心臓が激しくひとつ打ちつけたことは覚えているけん、どう息をしていたのか、その後どうしていたのか覚えていない。実習へは行けていたので、最低限のことは多分 出来ていた。ただ、大切な おとももちに連絡出来なかったことは確かだ。怖かったんやろうと思う。口に出したり、文章にすることが嫌やった。
夕方、実習を終えた僕はベルドへ向かう電車に乗っていた。こんな時に限って乗り換えの電車が なかなか来ない。ひとつ前の電車までは時間通りやったのに。落ち着かなければと おとももちに連絡して心を保とうとする自分と、苛々が募る自分とで忙しかった。僕が無事にベルドに着くようにと優しく返信をくれた おとももちに感謝しながら4回の乗り換えを経てベルドに着いたときには、既に5回の裏が始まるところやった。ドームに入ったとき、ちょうどベンチからセンターの守備位置へ向かって走ってきた姿をレフト後方の階段を降りながら確認した。僕の目には その人、ただひとりしか見えていなかった。
階段を降り切ったところで、僕の足は止まった。止まったというより、動かなくなった。もう その場で守備を見届けたいという気持ちと、早く自分の席へ行かなくてはと焦る気持ちがぶつかり合って、ジリジリした。重たい足を"お願いだから動いて"とグーで叩いて無理矢理動かす。ビジターユニフォームで守備につく姿を目に焼き付けたくて、なんとか小走りに近い速足で一塁側フィールドビューシートへと急いだ。
席に着いて間も無く、センターから戻ってくる姿が近付いてきた。スタンドから多くの声が掛けられ、その声に丁寧に応えながら静かにベンチへ入っていった。
僕の涙腺は既に崩壊していた。我慢していたつもりやったけれど、かなり声が出てしまっていたと思う。周囲にかける迷惑を思うと申し訳ない気持ちやったけん、頭と心、そして涙腺は全く言うことをきかなかった。そんな中でもカメラを持つ手は必死に堪えていたと思う。1年半と まだ短い期間やけん、毎試合撮りたい瞬間を心に思ってきた日々がなんとか撮影する手を保たせていた。
6回表の打席がサードゴロやったことは後で知った。冷静に見ることが出来ておらず、ヒットでなかったことだけわかっていた。沢山の拍手にしっかり応えつつも控え目にベンチに戻っていった姿をレンズ越しに見つめた。
6回裏、ベンチから出てきた直後の様子に硬直したのは僕だけではなかったと思う。今まで見てきた経験から、これは守備に着かない キャッチボールに出てきてくれたんやと姿が見えた瞬間わかった。そう先程の5回裏にセンターを守る姿がビジター最後の守備となったのだ。目の前の現実を受け入れる準備は全く出来ていなかった。それでも自分から見えるところにいてくれる時は一瞬たりとも見逃したくなく、滲む視界の向こうの姿を必死に追いかけた。その後はファンを思って(やと思います)毎回キャッチボールに出てきてくださり、声燕に優しく応えていた。それが彼のやり方であり、優しさなのだ。ただ僕は周りとの感覚の違いに苦しんでいた。彼が望む正解を出す周りの方々と、それを容認できない自分との隔たりを感じていた。でも、その隔たりは自分の見てきたことや感じてきたことを肯定するもので、"正解"をわかっていても受け入れられなかった。試合後、僕と同じ感覚を おとももちが感じてくれたことは とても嬉しく、安堵した。
試合中は選手たちへの声燕が常に飛び交っていたのだけれど、僕には その声は遥か遠くに聞こえ、自分だけ別の空間にいるような感覚やった。この日スワローズは れんれんのホームラン(全然覚えておらず、本当に申し訳ない気持ちです)など素晴らしい得点力で、ファーム今シーズン最後のビジターの試合を勝利した。いつもなら嬉しいハズの瞬間は、悲しくて寂しくて過ぎていく時間が恨めしかった。
それから どう過ごしていただろうか。今思い出そうとスケジュール帳を見たけれど、ベルド後2日間の自分を全然思い出せない。次の記憶は9月28日の戸田球場だ。
その日、僕は初めてルールを破った。正確には自分的ルールを破った。前日から、土曜日は戸田球場に姿を見せてくださるのか、とても不安やったからだ。着いてみると車が無い。望まない現実の方でないことを祈りながら、たまたま前を歩いていた藤澤さんを追いかけるように戸田球場へ向かった。必死に歩いたけれど藤澤さんに追いつくことはなく、僕が土手から駐車場がよく見える位置まで辿り着いた頃には、藤澤さんは既に駐車場の倉庫の中に入っていった。
落ち着いて駐車場を確認する。やはり無い。球場内が真っ直ぐ見える位置に顔見知りの方を見つけて、伸び始めた草を気にしながら土手を降りた。球場内では選手たちがアップを始めており、手前にヤンスワ野手くんたちが見えた。奥には投手たちだ。シルエットと動作で確認すべく目を凝らしたけれど、なかなか見つからない。カメラを出せばいいだけなのに、頭が回っていなかった。今思い返すと、冷静さに欠けていた自分が本当に情け無い。
焦っているのが伝わったのか、近くにいらした方がケリーくんの車で来たことを教えてくださった。いつもは乗せてくる方やけん、今日は乗せてきてもらう側やった。でも、おるんだ。嬉しさを感じる暇はなく、数十人の中を必死に探した。そうこうしてる間にアップが終わり、選手が散らばり始めたときベンチに向かって歩くオールドスタイルの姿を確認した。僕は土手を更に下まで早足で降りた。
練習を最後まで見たと思う。実は その時間の記憶が全然ない。練習後は、確か何も食べておらんかったので、ガリガリくんを買いに行った。そこでカメラの師匠に会ったところからは記憶が残っている。師匠(普段は お名前で呼んでいます)と球場まで歩いているときに言ってもらえた言葉がある"見てきた人にしか わからないこと、気付けないことがあると思う" 正直、僕には他の皆さんよりも見てきたと自負するだけのモノはない。むしろ、追いかけられんかった自分に怒りを抱いていた。それでも、8月の後半に感じた違和感を話すと、それを優しく肯定してくれ、救っていただけた。
その日、師匠と1番乗りで球場に入った僕は、直ぐにメンバー表を確認した。嫌な予感が的中し、目からの汗をぐっと堪えた。名前の上に青いラインがなかった。
そこからの僕は いつもならしない大胆な行動に出ていた。これ以上 悲しい後悔を増やしたくない気持ちやったからだ。でも、そこで教えていただいたことは僕の心を深く抉り、悲しみと怒りを覚え、苦しくて試合開始前に戸田球場を飛び出してしまった。そこに留まる力が その時の僕にはなかった。
頭と心の整理がつかないまま、9月29日の朝がきてしまった。おとももちが居てくれたけん、28日よりは冷静さを保てていたと思う。記憶も それなりに残っている。朝練に おみくんが合流したあたりから少し怪しいけれど、なんとか踏ん張っていた。おみくんが来ることは予想出来てたけん、朝練から来るとかさ…ズルかよ。おみちゃんてば全部持って行きやがって。
29日の事はYouTubeの配信があったし、沢山の方が写真や動画を呟いてくださったので、皆さん それぞれが それぞれの見かたや思いで色々なことを感じたのではないだろうか。それぞれが感じたこと、それが正解やと思うので、僕の感じたことは自分の中にしまっておこうと思う。そして、僕も もう少し落ち着いたら皆さんの投稿を ちゃんと見せていただきたいなと思っている。現時点では殆ど見れていない。見れるようになる日が いつ来るやろうか。
9月が終わり10月に入った。入ってしまったという感覚だ。スワローズの試合がなかった1日の記憶は全くない。2日の早朝はノリくんの記事を朝一で読んだ。そこに彼の想いも書かれていると聞いていたからだ(内容は13日の振り返りの最後に書いた通り)。想像していた通りやった。苦しみと悲しみで侵された頭と心を整理できないまま、足は神宮球場に向かっていた。
おとももちたちと待ち合わせしていた僕は、皆んな揃って牛タンつくねと塩キャラメルクレープを食べ、笑び餅ドリンクを飲んだ。その後ノリくんの素晴らしいラストゲームを観たハズやけん、全く集中出来ていなかったと思う。サンスポも買い逃した。出来ることなら心穏やかな状態で もう一度見たいなと悔しい気持ちだ。試合中は一塁側スタンドが気になって仕方なかった。どこで見届けとるのか、そればかりを考えていた。ベンチに座る姿を確認出来た時は、背番号23のユニを着れたこと、一緒にグラウンドにおれたことにほっとして、僕の体は小刻みに震えた。ノリくんの後に続いてのグラウンド一周の時の お顔は、肉眼レフに焼き付けた。
2日の余韻に浸る間も無く、翌3日がきてしまった。"こないで"と何度も何度も唱えたことを許して欲しい。その日は本来なら朝から夕方まで予定が詰まっていた。新しい生活になって2年半、皆勤賞やったけれど この日始めて仮病を使った。神宮へ早く行きたい気持ちがそうさせたのか、殆ど寝れずに朝を迎えた。急いで身なりを整える。髪を結く手が震えて なかなか結べない。いつもの倍 時間がかかった。焦る気持ちも時間を取らせた原因のひとつだろう。結局 乗ろうと考えていた電車を一本遅らせ、予定より20分遅れで神宮に到着した。僕が着いた時には、彼を追いかけてきた戸田で何度も見かけた方々が既に最後の御出勤を見届けようと待ち構えており、その雰囲気は様々やったけれど、皆一様に寂しさを纏っているように見えた。
選手でクラブハウス1番乗りは琉偉くんやったと記憶している(違ったらスミマセン)。それから少しして、見慣れた車が3番目(やったハズ)でクラブハウスに入っていった。予想通り早い到着で、間に合って良かったと安堵したと同時に、僕の心は苦しさと悲しみに支配されていった。
おとももち皆んなと合流してからは、少しは上を向いていられたと思う。合言葉は「席に着いたら にこにこする」だ。"今日こそは自分も彼の希望通りにできますように"そう考えていたのは嘘ではない。
今シーズンの神宮最終戦やったのも相まって、球場内は いつもに増して わいわいとした お祭りに近い雰囲気を感じた。ムーさんや宗さんの演出の影響は大きく、背中にガムテープで背番号を貼った方も多く見かけた。この時は席に着いたら にこにこする が実践できそうな気がしていた。
この日も いつも座っているブロックに席を取っており、席に近づくと真後ろが今年大変お世話になった方なのがわかった。その方を見つけるなり自分の朝からの行動を勢いよく喋り倒した。僕の話に付き合わせてしまい、本当に申し訳ないことをしたなと反省している。試合のことは、皆さんの方が間違いなく わかってらっしゃると思う。僕は結局、試合は全然見れていなかったし、"席に着いたら にこにこする"を全く実行できなかった。覚えているのは、一塁側スタンドに おみくんやケリーくん宮沢さん達が座っており、最後の試合を見届けているのが見えたことだ。まだ何とか踏ん張ろうとしていた自分が そこにおったことは確からしい。試合前に流れた選手の日替わりコメントで「守備を見て欲しい」と言っていた。「わかってます」そう心の中で返事をした。試合が進むにつれて、自分の心臓の音がハッキリと聞こえるようになっていた。強く打ち付ける鼓動が、最後の守備と最後の打席の時は激しい痛みを伝え、現実を突き付けた。
試合後のグラウンド一周の時、声を振り絞ったことは覚えている。目の前を通り過ぎていく彼に向かって感謝の気持ちを叫んでいた。きっと僕の声なんて聞こえなかったやろう。それでも どうしても届けたかった。選手として ずっと踏ん張って努力し続けてくださったこと、僕に勇気をくれたこと、応燕する日々を与えて貰えたこと、どれだけ言っても足りないけれど、ありがとうの ひと言だけでいいから届けたかった。対峙したときには伝えられなかった その言葉と気持ちが届いて欲しいと願った。セレモニー後、自分がどんな動きをしたのかハッキリは覚えていないけれど、おとももちの顔を見にクラブハウス前に行ってから球場を後にした記憶は残っている。多くの出待ちの方々がおり、クラブハウス前は異様な雰囲気やった。おとももちと僕は お互いの様子だけを確認して、その場を去った。これ以上 彼の姿を見ることは求めなかった。既にファンに向けての姿を全て見せ終わった後やと感じていたし、性格の悪い僕にとって突然湧いて出た大勢に紛れて見るのは苦しく、不本意やった。選手としての姿は球場までで留めておこうと思った。
最後に、今回のことで本当に多くの方に迷惑をかけたと自覚している。ありがたいことに、沢山の優しさに助けていただいた。心配して直ぐに連絡をくださった方々、そっとしておこうと配慮してくださった方々、そして僕が頼りにさせていただいた方々、全ての方々に感謝の気持ちでいっぱいです。戸田でも神宮でも酷い状態やった僕に寄り添ってくださり、助けてくださり、本当にありがとうございました。
選手を終えた後、どんな立場かわからんけど球団に残る可能性が高いことはわかっていたのですが、僕が追いかけたのは野球選手としての彼であり、本人が1番驚いたという決断を僕は受け入れる準備が全く出来ていなかったし、正直、コーチ就任が発表された(10月15日の昨日発表)今でも、まだ頭も心も整理できていない。どんな思いで決断したのか、もう考えるべきではないのかもしれないけれど、自分なりに見て聞いてきたことが間違っていないとするならば、この複雑な気持ちが消えることはないやろうと思う。それでも、これから先スワローズのために尽くしたいと言った彼の言葉を大切にして応燕は続いていく。僕に出来ることは ただそれだけだ。
10月16日の今日、新米コーチは背番号31を付けたまま練習に参加した。僕は初日の練習に間に合わなかった。相変わらずの人生だ。そして、僕の休みと練習の休日が重なっているため、しばらく見ることはできないらしい。前途多難…まぁいつものことだ。想像出来ることと言えば、これから ひとり早出をして神宮でバント練習をしてきた時のように、今度はノックの練習をするのだろう(ケリーくんは既に練習に付き合っていた模様w)。真面目で真っ直ぐなところが本人を苦しめることもあるかもしれんけん、自分を律して努力されるその背中を これからも追いかけていきたいと思っている。なるべく迷惑をかけないように気を付けるけん、どうか許して欲しい。
晃大朗さん、選手生活を精一杯努めてくださり、本当に ありがとうございました。僕は君がおってくれたけん、日々諦めずに生きてこられました。
これからの新しい日々を、より温かく幸せに過ごせるよう願っています。
今まで ありがとう。そして、これからも宜しくお願いします。
大好きだよ
こーちゃん
山崎晃大朗 様
ri
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