「可能性を信じる」ということ
精神保健福祉士(ソーシャルワーカー)の仕事の話。
わたしが大切にしていることを綴りました☺️
精神科病院に勤務していた時、たくさんの方に関わらせてもらったが、その中でも忘れられない患者さんがいる。
10代で統合失調症を発症し、重度の幻覚妄想状態で入院治療を余儀なくされていた。
私が出会った時は20代半ばだったが、5年以上入院していたと思う。
これまで何人も担当が変わり、あらゆる手を尽くしても八方塞がりで、一生、退院はできないだろうと家族さえも諦めていた。
そんななか担当になった私は、本人、家族に挨拶すると、「またか(担当かわるの)はいはい。」といった反応。
これまで担当してきたドクター、看護師、心理士、作業療法士、ソーシャルワーカーの皆が、病状の重さに頭を悩ませていた。
いわゆる“困難ケース”として引き継いだ。
ひとまず私は、周りの意見や先入観を無視して、一から関係性を築こうと試みた。
本人は、起きてる間は常にといっていいくらい幻聴が聞こえていて、疎通が困難。幻聴や妄想にとらわれて、明らかに奇異な行動をすることもたびたび。
話しかけると、一瞬振り向くが、すぐに自分の世界へ戻っていく。かと思えば、私を見つけるなり執拗に「退院させて」と迫ってくることもあった。
退院できない理由を説明するも理解は困難。
人との適度な距離感が掴めず、一方的な自己主張を続ける。
私は『もーう!いい加減にして(心の声)』と気が狂いそうになることも。
病棟に行く時はなるべく見つからないようにコソコソしてみたりしたが、そういう時ほど見つかって対応に難儀したのは言うまでもない。笑
そんな私だったが、家族面接を繰り返して、本人の生い立ちから発病までの経過を教えてもらった。
どんな環境で生活してきたのか、兄弟仲のエピソードを聞いたり、家族の思いや苦労話をたくさん聞かせてもらった。
本人とは、全く噛みわない会話の中で(何度も心折れそうになりながら)コミュニケーションを図り続けた。
何が好きで何が嫌いで、どんなことに興味があるのかを知り、少しでも彼女を理解したいと思った。
調子が良い時は、普通に会話ができて、「学校に通いたい」と言っていた。「“社会”の勉強をしたい」らしい。(それ以上は引き出せず)
中学生から病気の前兆があり、高校生で発病した彼女は、学校に通えなくなり幻覚妄想にとりつかれ、家族に暴力を振るうこともあった。
彼女の人生で一番輝いていた時代は”学校に通っていた”学生時代。その後、病気によって多くのものを失ったのだろう。彼女の中では、学生時代から時が止まってるようだった。
失われた時間の長さと切なさを感じずにはいられなかった。
精神科病院に長期入院の道しか本当に残されてないのか?私は試行錯誤。
彼女に合った社会復帰施設や入所施設はないだろうか?と。これまでも何度も何度も検討されてきただろうが、諦めずにふたたび。
家族は自宅に引き取りたい気持ちはあるものの、24時間いっときも目が離せないという不安と、妄想に左右された暴力への恐れ、このまま入院させておくのは可哀想と言う気持ちの間で揺れ動き、葛藤していた。
本人、家族とそれぞれに関わりを続けながら、院内でカンファレンス、面談を繰り返した。
さまざまなパターンを想定して、いろんな福祉施設や事業所に相談しては見学に行った。
重度の症状ゆえに断られることも多く、「やっぱり難しいのかな」と私たちも何度も諦めそうになった。
それでも本人に適した施設を探して、相談して、見学して、体験して、をひたすら繰り返した。
上手くいきそうになると、不安が先行してか、突然本人が調子を崩して振り出しに戻ることもあった。
そうこうしながら根気強く関わり続け、本人が精一杯頑張った結果、2年の時を経て、彼女は退院した。
「学校に通う」という夢を、生活介護事業所に通うという形で叶えることに成功。
ここに辿り着いたことが既に奇跡であった。
一時期でも退院できた事実、それだけでも十分なほど。
大きな環境の変化に適応できず、すぐに病状悪化して再入院するかもしれないと覚悟していたが!!
まさかの“学校“への行き渋りもなく、毎日休みなく通っていると。そして、楽しいと。
家族が泣きながら喜んでいた姿に、私も胸がいっぱいになった。
そんな家族に、釘を刺すようだったが、こんなことを繰り返し伝えた。
「うまくいくときばかりではない。でもこの一歩は計り知れなく大きい。だから、うまくいかなくて再入院しても落ち込まないでくださいね。入退院を繰り返しながら、そうやって少しずつ自宅で過ごす時間が長くなっていくのが理想。長期戦です。家族が無理していたら続かないので、抱え込まずに周りに助けを求めてくださいね。これからも皆で支えていきます。」と話した。
家族の心構え、本人への対応が変化したのも、退院できた大きな要因のひとつだった。
重度の統合失調症で、知的能力の低下も著しかった彼女が、正直ここまで自立して社会復帰できるようになるとは誰も想像できなかったと思う。
私は特別なことは何もしてない。
というか当然そんなことはできない。
が、誰よりも、ただひたすらに、
彼女の可能性を信じ続け、私ができるソーシャルワーカーの仕事を淡々とやった
と思う。
皆が手を尽くし、本人、家族もいろんな感情と向き合う時間があったからこそ、全ての機が熟したタイミングでもあったのだろう。
外来で会う彼女が、(相変わらず無表情ではあるが☺️)生き生きしていて、家族が疲弊していなくて、、
「なんとかやってます」と笑顔で話してくださった姿が、印象深く残っている。
これから先、どんな人生の展開がまってるかは分からないが、担当させてもらったこと、可能性は無限大にあるという感動を教えてもらったことを、私はこれからも一生忘れないだろう。
これから大変なことの方が多いかもしれないが、必ず助けてくれる人がいるし、支えてくれる人がいる。そのことを忘れないでいてほしいと願う。
ソーシャルワーカーの仕事から離れている私だが、これからも私は、誰かのそんな人でありたい。
その人が持つ可能性を信じて、心に寄り添う。
これは、私がどんな時も大切にしてきた(している)揺るがない軸だ。
人の可能性は強く信じられるのに、自分のことを散々後回しにしてきたわたし。
私の可能性も無限大。これからはまず、自分で自分の可能性を強く信じきろう!!と改めて心に誓った。
忘れられない彼女の笑顔と家族の涙を胸に刻んで。
諦めない、どんな時も。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
RICO