Parannoul「To See the Next Part of the Dream」:青春のその先で鳴る轟音について
もちろんこのアルバム冒頭の「何聴いてるの?」「リリィ・シュシュ。」という会話は岩井俊二監督作「リリィ・シュシュのすべて」からの引用(というかサンプリング)であるし、上記のような光景が実際にあったわけではない。
だが、このアルバムを初めて聞いた時―バンドキャンプの青い再生ボタンをクリックしてこの約1時間のサウンドトラックを聞き終えた時―、私は制服を着ながら過ごしている少年少女たちの姿が浮かんだ。
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ソウル出身のアーティスト・Parannoulが2月に発表したアルバム「To See the Next Part of the Dream」はほぼ無名であったのにも関わらずSNSで話題を呼び、Pitchfork・RYMといった批評サイトにおいて高い評価を得た。
My Bloody Valentineは勿論としてPale Saints、Curve、Medicineといった鋭利なシューゲイズサウンド、Sonic youthやAlice in Chainsといったオルタナティブロック、Sunny Day Real Estate、Jets to Brazil、Mineralといったエモ等のアーティストからの影響をひしひしと感じさせるようなこのアルバムは、まさしく全ロックリスナー待望の1枚であったことは間違いない。
直線的なドラムに歪ませたギターの音を幾層にも重ねて音の壁を作り上げる。どこか煮え切らないながらもポップに歌い上げたメロディーが音の中ではっきりとした輪郭を伴わずに響く。そんなある意味様式化しながらも我々の毎日を彩るギターロックの真ん中を貫くサウンド。一聴しただけで2021年のフェイバリット作品の一つになると確信したのは自分だけではないだろう。
そして私がこのアルバムを「奇跡」だ「革命」だ「新時代のサウンドトラック」だのと言った理由はもうひとつある。それはこのアルバムが(ボーカルを除いて)ほとんどがDAW上で完結して作られたから、である。
先々月、おすしたべいこさんが主宰しているwebマガジン「Sleep like a pillow」においてParannoulへのメールインタビューを敢行した記事か公開された。
Parannoulの生い立ちから音楽的嗜好、現在の生活までと音楽性の核心に迫るような大変濃厚で素晴らしい記事であるのに加え、このアルバムへの向き合い方を一変させるような事実を知った。以下にその内容を引用する。
勿論、近年のDAWソフトの性能は上がり続けているし、全ての楽器のサウンドメイキングから録音までをデスクトップ上で完結させることは珍しくない。昨年リリースされたMura Masa「R.Y.C」におけるギターの音も本物と遜色がないと(私の耳は)感じた。
とはいえParannoulの音楽性はエモシューゲハードコアオルタナロックである。演奏者の身体と一体化し、その感情の発露の場となる楽器たちが主役となる音楽だ。生楽器だからこその揺らぎや淡いといった要素が楽曲のメインとなる。ケビンシールズの圧倒的数量の機材やサーストンムーアのジャズマスターがそれを証明している。
しかし、しかしである。Parannoulは自身の持つ鬱屈した感情、過ぎ去った青春時代への郷愁を余す事無くサウンド及び楽曲に落とし込んでいる。デジタルな情報で完結している筈なのに、ここ30年間で積み上げてきたギターロックの身体的享楽を更新したのである。というか自室に籠り積み上げた音たちが初めてスピーカーから溢れて世界に放たれる、というカタルシスはかつてのギターロックの興奮を上回っているとさえ思う。
これを「革命」「奇跡」「新時代のサウンドトラック」と呼ばずして何をそう呼ぶのか。まさに2020年代のニュースタンダードであるし「the Next part of Rock Music」である。
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曲及びこのアルバムのテーマについて触れていないのでそれらについて。RYMのインタビューにParannoulは次のように答えている。
また、バンドキャンプの自身の紹介文にもこう書かれている。
拙い英語力で要約すると「青春時代は過ぎたがその日々を忘れられない、現実から逃げ出したいひとりの人間についてのアルバム」といったところだろうか。
若さからくる怒りや絶望をストレートにぶちまけているのではなく、むしろ過ぎ去った日々を想起しながらの曲作り。それ故の三人称的な、神からの視点のような現実への距離感を楽曲から感じるような気がするし、それが今の自分のマインドにぴったり合ってしまっている。
その一方で3曲目「Analog Sentimentalism」の終盤に突然流れる目覚まし時計のチャイムのような音は一気に聴く者を青春時代に引き戻す役割を果たしているし、5曲目「To See the Next Part of the Dream」冒頭での学生たちの台詞のサンプリングも同様だろう。
そしてこのアルバムの不思議なところに、喚起される「青春」およびそこから感じる「郷愁(=ノスタルジア)」が必ずしも自分の経験に結びついていない所にある。
このアルバムの持つ「ノスタルジア」はこの引用で書かれていることに等しい。ここでparannoul自身が答えている通り、失われた若い日々と現在の生活の差異から生まれるものだ。
それに加え、このアルバムの持つ性質はこの引用の通りだ。個々人の経験に関係なく、ある意味共同幻想としての、実際には存在しなかった、美しすぎる「青春時代」のようなものをこのアルバムは提示している。その寓話性が聴いていると恥ずかしくなってしまう、目を背けたくなる「若さ」のようなものを打ち消しある種の普遍性を獲得しているのだろう。
つまるところ、このアルバムを再生すると現実の中にいながら青春時代の幻想に堕ち、しばらくして引き戻されながらもまだ夢心地のまま…そんな共感と俯瞰の間、こちらとあちらの境目で右往左往するような、そんな不思議なトリップ感を得ることができる。
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そしてこっからは完全に妄想と言うか戯言である。私がこのアルバムにここまで没入することができたのは、私がこの島国で育ったからで、Parannoulが韓国出身のアーティストだからだと思う。日本にも偉大なアーティストは膨大に存在するし、韓国も同様だ。実際にParannoulは韓国のエモ・シューゲの先達を参照元として挙げている。しかしそういった音楽の源流にあるのは遠く海を隔てたヨーロッパやアメリカであり、そのダイナミズムを実際に肌で感じる機会は殆ど無いに等しい。ましてや私やParannoulが青春時代を過ごした(であろう)2010年代はロックミュージックの勢いが削がれていた時代であり、もちろん他のジャンルの素晴らしさは知った上で、どこか疎外感を感じていた部分もあった。そんな居ても立っても居られなさや物足りなさ、そこからくるフラストレーションのようなものをこのアルバムの節々から読み取れる気がする。
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散々御託を並べたが、やはりこのアルバムの一番の楽しみ方は何も考えずにただ大きな音でサウンドに溺れることである。聴きながら目を閉じれば、ジャケットのような青い空がいつでも私を迎えてくれる。過ぎ去った青春は過ぎ去ったからこそ永遠に朽ちないし、その先でこのアルバムの中で生き続けている。「To See the Next Part of the Dream」、上半期の、2021年の、人生のベストアルバムです。