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HARD ①依頼
六月十四日 深夜 池袋
差し込むオレンジの外灯だけが頼りの暗がりで物音がし、呻きが聞こえた。
夕方から降り続けている六月の雨が作った水溜まりに倒れ込んだ男は、口から零れた血を泥水に滲ませた。その量からも内臓を傷めていることは明らかだ。血を吐く男の背に単管が振り下ろされた。
「がぁ…!て、てめえ等どこの…」
身体の異変には飲み終えたころから気づいてはいた。酒に酔ったことなどない男が、奇妙に目が回り、頭を振った。水に突いた男の腕周りは太い。だが上げようとした男の顔を、サッカーボールのように蹴り上げた男の太ももは女のウエストほどもある。
「ゲフッ!」
上唇が半分切れて垂れ下がった。噴き出す血で顔面は赤い面を被ったように見える。仰向けに転がった男の腹に小柄な男が加減無く単管を突き立てた。
「が、はっ!」
突いた単管を捏ねながら小男が低く笑った。
「俺らが誰かなんて関係ねえ」
不意に単管を緩め、再び、今度は顔目掛けて突きおろした。骨に当たる鈍い音が路地に響いた。
「ぎ…!」
転げた男の後ろ頭を、今度は大男が踏みつけた。踏まれた男の鼻が音を立てて折れた。
「こんなもんにしておきますか?」
大男が単管の男に伺いを立てた。
「まだだ。こいつは空手四段なんだろ?仕返しされちゃあ叶わねえや。取り敢えず両手両脚使い物にならねえくらいには――そうだな、箸なんか一生持てねえくらいにはぶっ壊せ。半殺しじゃなく、九割殺しだ」
大盛で――と飯屋で注文するような、特別な感情もない言い方だ。言われた大男は、これも特に感情を表すでもなく頷き、男の後ろ頭から足を退け、三度、四度、五度と踏みつけた。その度に男の手足は壊れた人形のように跳ねたが、既に呻きは出さなくなっていた。
「どけ」
大男を脇に退けると小柄な男は手に「ペッ!」と唾を吐いて単管を握りしめた。
「バカがよ、誰に睨まれたと思ってやがんだ」
スイカ割りの要領で振り下ろされた単管が、横たわる男の右太ももを叩く。鈍い音が雨の中に聞こえた。男は満足げに笑って構え直すと今度は左の膝裏に打撃を入れた。更に左右の腕、肩、そして背中に単管の打撃を入れると小さく肩で息をし、得物を放り投げた。
「ちぇ、雨、強くなりましたよ」
大男が空を仰ぎ見る。その視線を周囲に移した。フェンスで囲まれた、そう広くもない空き地だ。付近に人家は無い。
「誰も見てなかったみたいだし、とっとと行きましょう」
月も星も無い雨空に地上の灯りが映っている。
「そうだな。克也の店で飲むか?」
「はい」
二人の男には横たわる者への興味など既に微塵もない。二人はフェンスの一角にある扉を開け、表通りとは反対方向へと消えていった。
雨脚は強まり、捨てられた服のような男の背中を叩いた。微かに水たまりの中の指が動いた。男は泥水に顔を半分沈めながら目を開いた。鼻が潰れて呼吸が苦しいのか、必死に息をしようとするが、顔を浮かそうにも両腕は動かない。争いが始まる前から頭はふらつき、足元がおぼつかなかったことを思い返す。
「おー…い…」
助けを呼びたいが声は思うように出せない。諦めて水の中に顔を落とし、辛うじて半分覗いている口の隙間で息をした。
その時、近くで単管の音がした。人の気配を傍に感じた。明らかに今しがたの二人のものでは無い、別の気配だ。それは横たわる自分を静かに見下ろし立っている。首も傷め、思うように回せないが、気配は回り込み、見える側にきた。血腫で腫れあがった右目はほぼ見えない。降り続く雨で濡れる左目を瞬かせ、気配の主を見て思わず出ない声を上げようとした。
「お…」
次の瞬間、稲妻の速さで単管が後頭部に振り下ろされた。
死体が発見されたのは雨の上がった早朝四時。バイクで通り掛かった新聞配達員が、通りからは少し離れた場所にある鉄道会社の資材置き場に〈それ〉を見つけた。通報で駆けつけた警察官が見たのは、後頭部が陥没し、耳や鼻、口からも脳漿が溢れ、大量の血に交じって水溜まりに広がる光景だった。その中に突っ伏して息絶えている男の傍には、毛の付いた皮膚が張り付く単管が転がっていた。
『古本喫茶・のむら』と書かれた看板に数羽の雀が囀っている。店前で濡れ落ち葉をホウキで集めていた野村瞳美は手を止め、空を見上げた。
「うん、良いお天気!」
昨日の梅雨空が嘘のように晴れ上がった空は、南の海を逆さに見たように青く澄んでいた。
伸びをする瞳美の頭上から少女の声が聞こえた。
「パパ、もう起きてよ!折角晴れたのに、いつまでも寝てたらシーツが洗えないでしょ!待ってくれじゃないわよ!頭が重いのなんか知らないの!朝まで飲んでるからバチが当たるんだよ?ほらぁ、お布団畳んで上げて!着替えはねぇ――」
苦笑と同時に瞳美は眉を顰めて呟いた。
「平和というかなんというか――」
首を振り、ホウキとちりとりを片付けると店の脇にある外階段に足を掛けた。手すりの途中に掲げられた『空室有り』のブリキ看板を通りから見えないように裏返すと、付いていた針金で固定した。傍らでは紫陽花が、仄かに赤みがかった花を付けている。紫陽花は、その土地が酸性だと青くなり、アルカリ性だと赤みがかった花を付ける――という話を中学で習ったのを瞳美は思い出した。
階段を上がりきる前に少女の華奢な背中が見えてきた。花柄のスカートにTシャツ。長い髪は後ろで束ねている。身長が百五十四あるせいで遠目ならば小柄な若妻に見えなくない。
「おはよ!」
瞳美の声に少女は振り返ることもなく「おはよ」と応えた。手にした洗剤を計量カップで量り、安手の洗濯機に注ぎ入れている。日曜の朝一番に小学五年生がする作業とも思えないが、それが少女・篠上陽芽の日常だった。
「陽芽パパ、まだ起きないんだ?」
開け放ったドアの前に立ち、腰に手を当てて瞳美は奥を覗き見た。短い廊下の右に流し台が、左にユニットバスがあり、奥に六畳二間。手前が陽芽の部屋で、奥が居間兼ダイニング兼、父・篠上颯介の寝室になっている。朝が来たのだから奥の部屋の利用目的優先順位は当然寝室からダイニングへと切り替わる。食事が終わればようやく居間だ。
「あちゃー…まだ枕抱いてるよ」
呆れて笑う瞳美だが陽芽は笑っていない。不機嫌そうに唇を結んでいた。
「朝はうちで食べる?美味しいホットサンド作ったげるよ?」
陽芽は首を横に振った。
「ありがとう、瞳美お姉ちゃん。でも残り物でパパに食べさせるついでに私も食べるから」
小学五年生と言えば十才か十一才だ。それがホットサンドの誘いよりも前日の残り物を始末する方を選ぶ――。
瞳美は静かに微笑んだ。
「うん、わかった。じゃあ、ご飯が済んだらパパにコーヒーくらいは飲みにおいでって。陽芽ちゃんも来るのよ?」
そう言い残して階段を下りていった。
アパート『野村荘』も『古書喫茶・のむら』が経営している。そこへ颯介と陽芽親子が越してきたのは二ヶ月前のことだ。
本来ならば『女性専用』が原則だが、父と娘という境遇と、颯介が最近まで警視庁の刑事だったという二点で既存住民からも快諾を得る事が出来た。女所帯は何かと不用心だから――という点で意見の一致を見たのだ。
階段を下りきり、振り返った瞳美は小さく一つ溜息をついた。〈野村荘〉は不動産屋を介さない。親子が入居相談で瞳美たちを訪れた際、颯介への瞳美の第一印象は決して芳しいものでは無かった。身なりこそスーツ姿ではあったが、その目は赤く濁り、力ない視線は〈虚ろ〉の一語だった。警視庁の刑事だったと聞いても積極的に部屋を貸したくなる匂いは感じなかったのだ。それでも部屋を貸したのは偏に娘・陽芽の存在が大きかった。
疲れ切った様子で「部屋を貸して欲しい」と話す颯介の隣で陽芽は真っ直ぐ瞳美に向けられていたが、そのどこか大人びた眼差しは時折チラリと颯介を見た。不安げな表情の少女に、瞳美は貸すことを了承したのだ。
「しっかりしなさいよね…」
呟き、瞳美はまだスイッチを入れていない店の自動ドアを手で押し開けた。
店の中では瞳美の父・達夫が忙しなく開店準備をしていた。今年で還暦を迎えるが、本人は初対面の者に決まって「見えないだろ?」と言うのが口癖だ。
『古本喫茶・のむら』は名の示す通り、古書店の一角に四坪ほどの喫茶コーナーを併せ持っている。扱う書籍にそれほどの専門性はない。強いて言えば瞳美の趣味で児童書やSFの品揃えが目立つ程度だ。
喫茶部門はカウンター席も有り、珈琲を入れながら振り返れば書籍の客に対応も出来る造りで、瞳美はその店の自称・看板娘だ。
「わたし洗濯物干してくるから、買い取り商品の研磨の続きやっといて。それから値付けも。明日が収集日だから段ボールに詰めた廃棄本をあとで表に出して。あと、きっともうすぐ陽芽ちゃん達が来るから陽芽パパにはコーヒーと、陽芽ちゃんにはいつもの野菜ジュース。パイナップルを少し多くね。それと――」
床を拭いていた達夫は髪を束ねる瞳美を恨めしそうに見上げた。
「一日分の用事を言いつけとくつもりか?」
「まかさ!ザッと半日分よ」
笑って奥へ消えた娘の背を呆れ顔で見送ると、達夫はクラシックのCDを掛けて床ふきを再開した。鼻歌を歌いながら後へと後ずさっていくと背後でドアが開く気配がした。
「まだ開店前なんですよ。すいませんねぇ」
常連かと思ったが、常連が開店時刻など間違うはずもない。振り返った達夫を見下ろしていたのは巨人だった。
「あ…あの…まだ開店前で、ご、ございまして…」
人生で初めて見る巨体だ。テレビで見るプロレスラーのような男の体躯に圧倒され、達夫は口ごもった。
「颯介さん、居ますか」
男の声は天井近くから聞こえる。その身長は優に二メートル近い。胸板の厚さは達夫が抱きついたとしても腕が回せないほどある。
「そう…?」
「颯介さん…。篠上颯介さん居るんでしょ?」
「しのがみ…ああ!篠上さん?居るっちゃ居ますけど…」
大男に隠れて見えなかった女が小さな男の子の手を引いて背後から現れ出た。ホッソリとした風貌だが、身体のメリハリを見せるに長けた服のセンスで、見るからに素人臭がない。その女は伏し目がちに黙っている。
「あ…あの…どどどちら様で…?」
大男の視線が、達夫の背後に向けられた。達夫が振り返ると、エプロンで手を拭いながら瞳美が立っていた。
「瞳美、こ、この人達が篠上さんは、ってさ」
女がソッと頭を下げて見せたので瞳美も応えた。
「あの、ご用件は?」
瞳美が訊ねると大男が低い声で「まあ、依頼です」と一言返した。努めて威圧感を抑えようとしているように見えても、それは猛獣の愛想笑いに見えた。
「依頼?」
「居るんですよね?颯介さん。お願いします。急ぎなんで…」
瞳美は達夫と目を合わせた。
「起きてるか分かりませんけど、そちらの席で少しお待ちください」
そう言って瞳美は急ぎ足で店を出て行った。残された達夫は居心地悪げに笑った。
「え…えーと…あの…コ、コ、コ、コーヒーでいいですかね?」
大男は何も答えず、静かに達夫を見下ろしていた。
急いで階段を駆け上がってきた瞳美に驚いて颯介親子の隣人・奥富洋子は思わず外廊下で飛び退いた。「なに?なんかあった?瞳美ちゃん!」と喚く洋子を尻目に、瞳美は颯介の部屋のドアを思い切り引き開けた。
「なんだ?大家ったって普通ノックくらいするもんじゃないのか?」
颯介はその手に歯ブラシを持っていた。背後から陽芽が顔を出した。頭には頭巾をし、手にフライ返しを持っている。部屋には卵焼きの香ばしい香りが満ちていた。
「チョット来て!」
「あ?いや、でも俺まだ便所も…」
「いいから!」
そう言うと瞳美は颯介の手を掴んだ。店に現れた大男ほどではないが、颯介も百八十後半はある。傍に寄ると瞳美の目は颯介の丁度肩の辺りだ。瞳美は見上げて言った。
「頑張って!」
「は?」
「依頼よ!二メートルの!しっかりやって!」
颯介は脇の下から顔を出した陽芽と目を合わせて首を傾げた。
ジャージ姿のまま部屋を引きずり出された颯介は階段を下りながら瞳美に尋ねた。
「二メートルの依頼?なんだそりゃ」
「プロレスラーよ!」
「は?」
「何だか知らないけど仕事の話みたい!ここは頑張らないとね!」
「頑張るって一体何をだ?」
「何でもいいでしょ!どうせ暇してるんだし!陽芽ちゃん養わないとねって言ってるの!」
詰め寄る瞳美に圧され、颯介はたじろいだ。
「そんなことは人からとやかく――」
「言われるような暮らしでしょ!小五の女の子が日曜日の朝から洗濯してるのよ?ねえ、それって普通?お父さんなんだからしっかりして!」
返す言葉が無く、颯介は後ろ頭を掻いた。
「ほら!とにかく急いで!ほらほら!」
瞳美は颯介の背を押した。
颯介が踏むと自動ドアは低い唸り音とともに開いた。一歩中に足を踏み入れたところで颯介の足はピタリと止まった。颯介の背に鼻をぶつけた瞳美が「痛ぁ!」と悲鳴を上げたが、その鼻腔に汗とも違う男の臭いが香った。
「お前――」
黙り込む颯介を喫茶コーナーの椅子から振り返り、男が軽く頭を下げた。
「知り合いのプロレスラーさんなの?」
瞳美が小声で訊いてきたが颯介は返事をせずに男に歩み寄った。
「なんでここが分かったんだ?」
「蛇の道――です」
隣の女と普通には並ぶことが出来ない体格なので、達夫が気を利かせて席を二つ繋げていた。
「ふん…」
颯介は鼻を鳴らして大男の前に回り込んだ。男の隣には見覚えの無い女が座っている。一目で〈素人ではない〉ことが分かる種の派手さを備えている。純白のショート丈ジャケットの下に深紅から仄かなピンクまで赤系統の花が隙間無く描かれたブラウスを着ている。その胸元は谷間の切れ込みが覗くほど開かれていて、身体に張り付くスカートはジャケットと揃いの白いミニスカートだ。だが、服装よりも颯介の目を引いたものがある。
――この女…。
辞めたとは言え、元刑事だった観察眼は反射として機能する。それが颯介に軽い嫌悪を感じさせた。表情のない者が必ずしも皆犯罪者などであるはずも無い。が、表情のない者は往々にして内側に仕舞っているものの量と濃度が濃い――と颯介は考えている。
殊更無表情を作る者には〈隠していることなど無い〉と思われたい欲求があるという事を颯介は経験上知っていた。
切れ長で一重の目が印象的な、一般的には美しい女――と言われる部類だと颯介も思う女から仄かに伝わる危険な香りが何によるものか分からず、颯介はテーブルから椅子を遠ざけるように引くと腰を下ろした。指を立てて瞳美に「ブラック」と注文した。
「突然、すいません」
言葉遣いで颯介とその巨人の力関係が感じられた。
「勘弁してくれよ。俺はもう辞めたんだぜ?なんで今更お前のツラなんか見なきゃならないんだ?」
颯介は脚を組んで窓の外を見た。昨夜酔い潰れた頃は本降りの真っ最中だったが――と思い返す颯介の目に、初夏の陽が染みた。窓際の花瓶には一輪の紫陽花が挿してあった。
「一大事なんで」
言いかけた大男を制して颯介はもう一度言った。
「俺は辞めたんだ。お前等の世界で何があろうが、一般人の俺からしたらお前等の祭りだ。迷惑なだけだぞ。こんな場末の本屋くんだりに来てないでそれこそ警察にでも――」
熱い飛沫が飛ぶかと思われた。瞳美が勢いよくカップを置き、小声で言った。
「場末の本屋で悪かったわね。ふん!」
言い残し、プイッと去った。
「ま…まあ、なんだ、だから警察にだな――」
「鏗爾さんが」
「こうじ?どこの工事だ?」
「いえ、その工事じゃなく、横山――」
伏し目勝ちだった颯介の目が大男をギラリと睨んだ。達夫も瞳美も初めて見る、相手を射竦めるような眼差しだ。それは空気を凍らせる。痛いほどの冷気に巨体は動じたわけでは無いが、微かに表情を強張らせた。カノンの流れる店で、全員が息を殺した。
「クラッシャーの、か?あの馬鹿野郎はまーだヤンチャやってんのか?」
「殺されました」
〈殺された〉という言葉に、達夫は静かに首を引っ込め、カウンターの下に消えた。言葉も物騒だが、そんな言葉を平然と口に出せる大男に改めて恐怖を感じた。
「ころ――鏗爾が?」
「はい」
「いつだ?」
問われた大男は壁掛け時計で時刻を確認すると辺りを見回した。
「それ、映るかな?」
指さしたのはカウンター脇に置かれた十四インチのテレビだ。
「え?あ、はい、いやどうかな…ずっと動かしてないから…」
マゴつく達夫を押しのけ、瞳美がリモコンを手にした。テレビは酷く白んだ画像で八時のニュースを映し出した。経済ニュースが終わり、地域のニュースに切り替わる。公務員の汚職ニュースに続き、女性宅に侵入して下着を盗んでいた窃盗犯の情けない顔が連続して映し出された。
「おい…一体…」
言いかけた颯介だが、アナウンサーの声に画面に釘付けになった。
「全国ニュースでもお伝えしましたが、続きまして今朝、東京豊島区で起きました男性遺体発見に関するニュースです。今日未明、豊島区東池袋の線路近くで血を流して倒れている男性を新聞配達員が発見し、通報しました。駆けつけた警察官が救急車を要請しましたが、救急隊員が到着した時点で既に男性は心肺停止の状態だったということです。警察は現場の状況から事件と事故の両面から捜査しています。現場に記者が行っていますので呼んでみます。現場の森尾さん?今どうなっていますか?」
画面が切り替わり、数台のパトカーが規制線の先に見える。若い警察官がマスコミのカメラとは視線を合わせないように立つ。その眼前の女記者が無機質な声で事の概要を伝えた。
『……はい、遺体発見現場です。こちらは練馬区と豊島区を結ぶ都道四四一号線が首都高と上下で交差するようにある場所で、遺体は私の丁度後方、ご覧頂けますでしょうか、あの高いフェンスに囲まれた狭い空き地で発見されたということです。既に遺体は運び出されましたが、現在もまだ警察による現場捜査が行われているところです。発見された遺体は性別は男性。現在までのところ警察からの発表では身元を示す様な所持品が見つかっておらず、氏名など詳しいことは分かっていないということです。捜査の進展次第で警察の正式な発表が今後行われる事になると思われますが、第一発見者の男性に話を聞くことが出来ましたので、それをお聞き下さい」
草臥れたジャージの首から下が映し出された。男の手は節くれ、皺が年齢を想像させた。
「驚いたよ、そりゃあ。いや、配達区域からの帰りだったんだけど、そこ通った時に人の脚のさ、膝から下?みたいなのが見えたんだよね。でもまさかなーとは思ったんだよ。それでよく見ようと思って扉開けたら、肩から下が見えてさ。そしたらなんて言うか、身体が、こう…ヘンテコな格好で――こりゃ大変だと思ってすぐに警察呼んだわけ」
再び警官の肩越しに現場が映し出された。
「現在までに分かっていますのは、推定年齢三十代半ほどで、がっちりとした体格。高級なスーツ姿だという話です。第一発見者の話にもありましたが、遺体はその全身がかなり酷い状態だったということです。見た時には男の後頭部は完全に割れ、手足も折れているようで奇妙にネジれていて、服も切れ、辺りの水溜まりはドス黒く血で染まっていた――と話していました。現場からは以上です!』
早朝のレポートにしては描写が生々しすぎるのでは無いか――と瞳美などは思ったが、画面が替わると表情の無いアナウンサーが原稿に視線を落とし、次のニュースを読み始めた。
「杉本!まさか今のが?」
颯介が杉本と呼んだ巨体は静かに頷いた。颯介ほどではないにせよ、その目は見るものを圧倒する獣性を秘めている。静かな獣。夜道で出逢いたくないタイプだわ――と、瞳は傍で見て感じた。
「鏗爾が…」
床に視線を落として颯介は呻くように言った。すぐに一つのことが脳裏に浮かぶ。
――警察発表は今のところ事故と事件の両面だと言っていたが、遺体の損傷具合は半端じゃない。それはありえない。
「いや、だがアイツは…」と、顔を上げた颯介に、杉本と呼ばれた大男は首を横に振って見せた。
「颯介さんの言いたいことは分かります。発見された場所は狭い。あんな場所で喧嘩したとしたら大人数相手じゃ無い。そもそもそんな不利な状況に、あの鏗爾さんが入り込むはずがない。仮に相手が少人数だったなら鏗爾さんに勝てる奴なんか、そうは居ないです」
颯介は頷いた。横山鏗爾という男を、颯介はよく知っている。颯介自身、サシでやり合ったことのある相手だ。疲れて勝負が付かず、最後は酒の量で勝負――となったことをふと思い返した。
「それが、あんなボロボロに――」
杉本が呟いた時、颯介は視線を感じた。顔を上げると、斜向かいに腰を下ろした女が颯介をジッと見ていた。そこに初めて感情を見た。目の奥に光るものは、紛れもない怒りだった。それともう一つ、颯介の目を引いた物があった。女の背後に置かれた椅子から、颯介を見ている男の子の視線だ。それを見る颯介の心に一つの言葉が浮かんだ。
――影…?
何にそう感じたか、颯介自身分からなかった。少年が目を伏せたので考えるのを止め、颯介は女に尋ねた。
「それで、あんたは?」
それには杉本が応えた。
「鏗爾さんの、奥さんで」
「恵崎です」
――名字が違うのは、事実婚か何かだからか。しかしこの女、どこかで…。
絡みつく蛇のような視線の女の横から杉本が言った。
「依頼です。颯介さん、調べて貰えませんか?」
颯介は女に向けていた視線を静かに杉本に向けた。
「一刻も…そう、警察よりも早く犯人を――」
大男の眼前に、颯介は手のひらを突き出して言った。
「勘違いするなよ」
「え?」
杉本の目が据わった。獣性に、獰猛さを加味した目だ。
「勘違いするな――と言ったんだ。俺は確かに元刑事だし、こんな場末――」
言いかけ、カウンターの奥で睨んでいる瞳を見て咳払いをした。
「ここで探偵業なんか始めたさ。だがな、その依頼は受けられん。そもそも俺たちは公安委員会に届け出を出している〈まっとうな〉職業だ。今は、法が整備されてなかった昔じゃ無いし、物語の名探偵なんか〈現実には法的に存在することを許されちゃいない〉んだぜ?やっても素行・浮気調査。盗聴盗撮器具の探し出しやら身元照会、行方不明者の捜索――そんなもんだ。殺人事件なんぞ、部外者がしゃしゃれば一課が本気で押しかけて来るだろう。だから、お前は勘違いをしてるのさ。依頼する先を、な」
颯介の言葉に杉本は目を細めた。並の人間ならば、その威圧感に失禁もしかねない。だが、颯介には何処吹く風だった。その颯介に、杉本は静かに言った。
「それは刑事事件だったら、の話ですよね?」
「一課が出張ってるなら、それは刑事事件だぞ、杉本」
「いえ、俺が言いたいのは、友達のことを調べるっていう――」
颯介は俯いて笑った。次に颯介が顔を上げた時、杉本はもとより、表情の無かった女も顔色を失った。それは猛獣をも静まらせる目だった。
「いいか、杉本。警察の仕事はドラマや漫画みたいなものじゃ無い。シャレなんぞ毛ほども入り込む余地はないんだ。俺は探偵業登録者ですけど、仕事じゃなくて、俺の知り合いが道ばたでボッコボコで死んでたから、なんでかなーって思って――なんて言っても、どんなノータリンな刑事だって〈そうなんですか!〉なんて笑やしねえぞ」
颯介が言葉を終えても、返す言葉を杉本は持たなかった。代わりに声が飛んだ。
「別件?とかいうのは別に良いんでしょ?殺人事件を何かするとかじゃなくて、その人のほら…捜し物とか?関係ないことをたまたま調べてるとか」
全員が、カウンターの中の瞳美を見た。
「い、いや…だからさ、それなら警察の許可なんか……。だめ?」
巨体の猛獣が瞳美の言葉に縋るような表情を見せ、颯介に頭を下げた。
「なんとか!お願いします!」
横山鏗爾の嫁だという女も、微かに頭を下げた。
颯介は瞳美を睨み、瞳美は指で〈カネ〉のサインを見せ、そっぽを向いた。呆れて頭を掻く颯介の目に、恵崎と名乗った女が連れている少年が映った。死んだ横山の面影を持たない少年は、何が話されているか分かる年齢とも思えない。だが、その表情には奇妙な闇があった。あどけない幼児――は持ち得ない闇だ。憎しみや怒りといった感情が、人の心の闇だとするならば、静かな闇が生む影が少年を包んでいるように颯介には見えた。
――奇妙な子だ。にしても…。
颯介は気分が悪かった。それ以上に何かが腑に落ちなかった。