小説『陰』 第二章
暗い路地。
踏んだり蹴ったりな毎日だった。大金を稼ぎ、贅沢の限りを尽くしていたのは、二、三ヶ月前。右肩上がりの地価が暴落したことで、西条祥吾の経営していた不動産会社は、たちまち借金まみれになった。大きく膨らんだ、たくさんの泡の連なりが破裂して一気に縮むように、祥吾の不動産屋が保有していた土地、建物の価値は奈落の底に落ちた。買い手は雲の子を散らすように離れ、会社は、解散。雇っていた従業員に最低限の給与を支払い、彼自身はたちまち失業者となった。
「明日の仕事は、どうしようか」
コンビニ弁当すら、買うのに抵抗感を感じる毎日。今日もチェックの襟付きシャツとジーンズという出立だ。ハローワーク以外に頼るところのない祥吾は、いつ仕事にありつけるか、このまま仕事がない場合、いつ実家に帰ろうか、などと考えながら、あてどなく、家の近所を散歩していた。満足に帰宅できず、寝る間を惜しんで働いていた多忙な日々から解放され、ここ一ヶ月の間の何もすることのない暇な毎日は、この路地の位置関係を覚えるのに十分な期間であった。どの路地を歩けば自宅まで一番早く帰れるかは、祥吾の中に正確に記憶されていた。そういう理由があり、深夜近くのこの時間帯でも明かりをほとんど頼ることなく、彼は路地のある地帯に入り、自宅まで続く道を辿ることができた。
祥吾が住んでいるのは、路地のある地帯から大きな通りを一本隔てたブロックにある安アパート。
「別に、事故物件というわけではないんだけど」
というのは、不動産屋が教えてくれたこと。祥吾の住居の近くでは、昔、大量虐殺が発生したそう。その虐殺は、関東大震災の後に発生した集団パニックによるもの。多くの朝鮮人、中国人、そして地方から上京してきた内地日本人が亡くなったという話だ。その虐殺の発生現場は、ちょうど今祥吾が歩いている路地の一帯。七十年も昔の話と思い、祥吾はそのアパートの一室を借りた。そこは四畳半の古い木造アパートなので、日雇い労働者同然の祥吾が払える程度の低い家賃だ。再出発のために、ハローワークに通いながら、職探しに勤しむ祥吾。
「まだ実家を頼るときではない」
と、自らに発破をかける。それでも心に灯った活力の炎は心許なく、暗い路地を流れる冷たい空気にさえ吹き消されそうになる。
「必ず、復活してやる」
そう自分に言い聞かせ、路地の出口に向かって、祥吾は早歩きで突進する。入り組んだ暗い迷路を抜ければ、明るい町が彼を出迎えてくれる。
「辛いのは、今だけ。未来は、明るい」
なけなしの自己暗示を、祥吾は呟く。その瞬間、彼は右頬に、仄かに温かい風を感じた。それは路地を偶然通りかかった一筋の風とは異質な、人間の湿った吐息のようだった。
「今の呟きは、自分の声だよな」
と思い、誰もいないはずの右側を振り返った。
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