小説『陰』 第三章
暗い路地。
仕事が終わったのは、夜遅く。本来は疲労で足取りが遅くなるのが自然な姿なのだろうが、崔珠妍(최주연)は浮き足立ち、軽やかな足取りで自宅までの道を進んでいた。残暑は過ぎ、これから来るのは寂しい秋の季節。鮮やかな紅葉が山々を着飾った後は、冷たい空気が町を覆う。珠妍の故郷と比べれば東京の冬はそれほど厳しくもなく、年の瀬に向かって町が賑やかになれば、彼女の心は自然と踊る。
村上良臣からプロポーズされたのは、つい数日前。付き合って一年、二十代後半に差し掛かった彼女にとっては、ここ数年で一番の贈り物。
「결혼해주세요(結婚してください)」
レストランで人目をはばからず、珠妍は良臣を抱きしめて、唇に熱いキス。待ちわびたこの日が、遂に彼女のもとに到来。その日以来、無表情な灰色のオフィス街は個性溢れる建造物たちによる芸術作品のコンペ会場へと姿を変え、今日のように夜遅くに近道として通る路地は、仄かな灯りをも喰らう暗闇の迷宮ではなく、遊園地にあるような楽しい迷路のアトラクションとして、珠妍の目には映り始めた。
「이 미로를 빠지면, 거기는 이제 내 집(この迷路を抜ければ、そこはもう私の家)」
こんな暗い路地でも、たまにはゆっくりと散策してみよう。すでに何回も通っている近道にさえそのように新鮮な喜びを見出せるほどに、珠妍は浮ついた心持ちであった。彼女は水の上を滑走するように、路地が網のように絡み合った一帯へと足を踏み入れた。
珠妍の身体には、どこを通れば家まで最短距離で行けるかが、しっかりと記憶されていた。迷うことなく、今日も宵闇の中、導かれるように彼女は早足で歩いていた。入り組んだ道を順調に進んでいる、珠妍。忙しく脚を動かしながら、
「무라카미 주연도 나쁘지 않아(村上珠妍も、悪くないわね)」
と思いながら、路地を流れる冷たい夜風が彼女の頬を撫でるのを、珠妍は堪能していた。少し歩けば、この路地を抜ける。今着ているパンツスーツからも解き放たれれば、一日の終わり。最近、一日の流れが早いのはなぜだろうと思いながら、珠妍は心の中で、結婚までの日数を数えていた。
一、二、三、と数えるうち、いつしか歩幅に合わせて数字を頭の中で唱えていた珠妍。待っていれば、結婚の日はすぐにやってくる。それは、今彼女が歩いている路地の出口も同じだ。路地に溢れて入ってくる大通りのざわめきはだんだんと大きくなり、賑やかな都会の夜は、今日も演奏会のよう。
「뭐부터 시작하면 좋아? 이제 바빠져요(何から始めればいい? これから忙しくなる)」
苗字を変えることも含め、結婚に至るまで、やることは山積している。良臣と協力して、上手く切り抜けないと。本番は、結婚してから。
出口までの最後の数歩を、力強く歩こうと、威勢よく脚を前に出したとき、珠妍の右頬を、今までの明るい気持ちを冷ますほどに不快で湿った微風が舐めた。
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