小説『陰』 第一章

暗い路地。
仕事帰り、蓬莱かの子は競歩と言えるほどの急ぎ足で、家に向かって歩いていた。颯爽と歩くキャリアウーマンと言えば、聞こえはいい。だがかの子はどちらかと言うと、仕事はほどほどに、プライベートは充実させたい、というタイプだった。今日はベージュのブラウスに、膝丈の深緑のスカートで、清楚な雰囲気の演出。たとえ予定がない日でも、誘いがあればいつでも参加できる準備をしておく。プライベート重視のそんなかの子にとって、最近の残業続きの毎日は気分も体力も萎える日々。女性だからと、職場の同僚も上司もかの子を早めに退社させてくれるものの、それでも定時を一、二時間過ぎるのは当たり前。周囲の同僚が日付が変わる直前まで残っていることを考えれば、かの子の定時退社は、しばらく諦めなければならない。
「早く、この繁忙期が終わってほしい」
そう切実に願いながらかの子は、建物と建物との間を通る、その暗い路地に入っていった。
その暗い路地は、家までの近道。通常かの子が使う通勤経路から外れているが、今日のように、殺人的に多忙な日にかの子はこの路地のお世話になっている。本来、この暗い路地は若い女性が一人で通るようなところではない。事実、十年ほど前、バブル崩壊の頃にこの路地で惨殺事件があった。二十一世紀になった今もなお、犯人は見つかっていない。
その路地がある一帯は、所狭しと並んでいるビルやアパートが壁となり、一種の迷宮を形成している。周囲の建物が影を作り、日中も陽の当たらない路地の中を流れる空気は、大きな通りと比べて少しひんやりとしている。残暑が過ぎた今の季節は若干の肌寒さを感じるが、夏の暑い時期は多少の涼が取れるという利点がある。家路を急ぐかの子は、自分の肌を撫でる冷気など気にせず、足早に路地を通る。路地では曲がりくねった道が互いに交わっており、方向を見失うと、たちまち迷う。かの子も、この一帯の路地の道を全て把握できている自信はない。通勤経路を短縮できる区間の道のりだけを覚えているのみに留まる。交差点をいくつか過ぎ、出口へと向かう。路地を出た先は、再び大きな道がある。喧騒が大きくなることで、出口までの距離がわかるような構造になっている。京都のように碁盤の目状に道が張り巡らされている町とは異なり、東京には曲線を描く道が多い。
身長の高いかの子が早足で歩けば、十分ほどで路地を抜けることができる。あと数歩で出口、という瞬間、彼女は右頬に、生温かく、湿った風を感じた。

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鮮道朝花は私のペンネームです。私の書いた小説を載せています。どうぞ、お楽しみください。 掲載作品: 『洞穴』『陰』『継承』『出会い』『淫獣…

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