「もやしっ子を御柱に!」ちょっとオカルトな中部の旅(その8)~「回天」を目指した黒木博司少佐 前編~
【前回までのあらすじ】
頭も顔も良いが、肝心な時に体調を崩しがちな「もやしっ子」後輩を、野性味あふれる聖地・諏訪の巨木御柱まで育て上げようと、昭和のパワハラ親父精神で旅に出た。
諏訪大社を参拝した後に、誰もいない暗闇で誰かにぶつたかったり、旅館自慢の風呂が水風呂だったりと珍道中となってしまう。
「わたしゃ知恵が足りませんからね ヘヘへ」とか言って象山神社で「ちえもち」を買った後輩だったが、さっそく失くしてしまい、知恵が足りなくなってしまう。
そしていよいよ下呂が近づいてくる。
ちょっとわかりにくい回天楠公社
「とちの実煎餅&カフェ 千寿堂」で栃の実せんべいを購入して出発。地図上では「回天楠公社」は眼の前とある。
山道を順調に登っていく。
ところが
「あれ?通り過ぎましたよ!」
「あれー」
入口が割とわかりにくくて、何度か確認する。
「飛騨信貴山山王坊」に隣接しているため非常にわかりにくい。
皆様も「回天楠公社」お参りの際はお気をつけください。
若い人たちが同じところで迷っていたけど、どうやら違う場所が目的のようだった。
この回天楠公社に祀られているのは、人間魚雷「回天」を考案した黒木博司少佐をはじめ、「回天」で殉職した138柱である。
ここで黒木博司少佐について触れさせていただきたい。
【黒木博司という人物】
黒木博司は、大正10年(1921年)9月11日にここ下呂の地で医者の息子として産まれた。
父は貧富の差関係なく懸命に治療する至誠の医者で、母は口癖のように「百人の人に笑われても一人の正しい人に誉められるよう、百人の人に誉められても一人の正しい人に笑われないよう」と教えたという。
成績優秀で優しい少年に育ち、支那事変勃発後の昭和13年(1938年)海軍機関学校に51期として入学する。大東亜戦争開戦直前の昭和16年(1941年)11月に卒業し、戦艦「山城」での勤務を命じられ70名の部下を持つが、抜群の統率力と部下への思いやりを示したという。
昭和17年(1942年)6月のミッドウェー海戦で連合艦隊は大敗を喫したが、艦歴26年を超え旧式化していた戦艦「山城」は貢献することができなかった。
従来の大艦巨砲主義では勝てないことを悟り、心惹かれたのは開戦劈頭の真珠湾攻撃の際の9軍神(※)であった。
※9軍神・・小型の潜航艇で真珠湾を攻撃、戦死した9名を言う。特殊潜航艇「甲標的」は浅い真珠湾では潜伏することが難しく、決死の攻撃であることが前提であった。
9軍神も使用した特殊潜航艇「甲標的」講習員に任命されると、その改良に取り組む。昭和18年10月には、仁科関夫中尉と出会い、二人で「回天」の原型となる人間魚雷を考案している。必死兵器の開発を海軍に嘆願し続けるが、永野修身軍令部総長から必死の兵器は海軍の伝統から許可できないと却下されている。
【推察する人間魚雷の意図】
よく誤解されるが、黒木少佐は特攻をすれば勝てる等と楽観論に走ったのではない。米軍と物量の差が絶望的になっていることから、ただの欧米発の軍事学を元にしたセオリーでは勝てないと判断していた。
いくら善戦したところで、パワーバランスが崩れた以上段々とジリ貧になるとシビアに見ており、実際予測通りに戦局は推移する。むしろ、補給が途絶えた前線に取り残された若者たちは敵に一矢報いることなく、病や飢えで命を落としていた。
ここに至っては、日本人が古来より行ってきた決死の戦法を取るしか無いと黒木少佐は考えた。命を賭すことによって一人が多勢を討ち取るしかないと考えた。これを近代戦で焼き直したらどうなるか、と考え決死の人間魚雷「回天」を考案したのだった。
実際、「特攻」が始まる前から、日露戦争の広瀬武夫中佐や白襷隊のように生還の見込みが低い決死の任務があり、真珠湾攻撃で体当たりを行った飯田房太中佐のような軍人もいた。
にも関わらず、ここまで敗戦を重ねながらも、海軍の伝統に無いからと言って簡単に却下する上層部に対して「中央の怠慢は国賊というの外なし」と黒木少佐は激怒している。
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非常にかいつまんだ説明で誤解を受けるかもしれないが、私が言いたいのは黒木少佐は特攻すれば解決すると考えるような楽観論とは真逆の人物であり、人が死ぬということにも責任感を感じる思慮深い人間だったということである。シビアに戦局を見ているからこそ、尋常な手段では戦争を終結させることすら難しく、敗北すれば日本は残らないだろうとすら思っていたのだ。
【「回天」訓練中に22歳の生涯を終える】
絶対国防圏と位置づけたサイパンが陥落し、日本本土への直接爆撃がが予測されるようになった昭和19年7月、絶体絶命の事態の中で「回天」はようやく認可された。
幕末期の回天丸から「回天」と名付けられるが、黒木少佐は「天を回らし戦局を逆転させる」との願いを込めて「回天」と呼んだ。
いよいよ9月5日から山口県の大津島にて訓練が開始されるが、翌6日に黒木少佐、樋口孝大尉を乗せた訓練用「回天」は海底に突き刺さる事故により、身動きできなくなってしまう。荒天で捜索が難航し、翌7日に両名の遺体を乗せた回天が発見される。享年22歳であった。
酸素欠乏による苦しみの中でも、事故原因を分析した遺書を冷静に書き残していた。有名な辞世の「國を思ひ死ぬに死なれぬ益荒雄が友々よびつつ死してゆくらん」からは、あふれる思いが伝わってくるようだ。
長くなってきたので、後編に続きます。
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