見出し画像

神話と現代の境目へ(出雲旅その4)~美保関に鎮まる「ますらをのかなしきいのち」~



【前回までのあらすじ】

令和6年元旦に起きた震災で心に期するところがあった野郎二人。出雲を目指して旅することになった。しかし、時間は1月4日の夕方から5日の夜まで、約24時間しかない。「24 -TWENTY FOUR-」のように緊迫した「中国大回転」旅が今始まる。

中国大回転の旅ルート

4日の夜に中国山地を突破して米子にたどり着き、5日朝米子駅前のスーパーホテルから大己貴命が焼き潰された赤猪岩神社を参拝し、近くの再生した地・清水井を訪問するのであった。

【1月2日の海保機の事故と、美保関事件】

令和6年1月2日に羽田空港で日本航空516便と海上保安庁の航空機みずなぎ1号が衝突する事故が発生した。日本航空の乗員は迅速な避難で全員無事だったが、みずなぎ1号の乗員6名中5名が殉職された。
みずなぎ1号は元旦に起きた能登半島地震の救援活動に向かう途中であった。


気になるのは海保を責める声がかなりあったことだった。事故はあってはならないが、非常事態の中での任務だったことを考慮しているのだろうか。
余裕が無い中で救援活動に向かおうとする任務への敬意はないのだろうか。

私はこの事故を知った時に、歌人・三井甲之の歌「ますらをのかなしきいのちつみかさねつみかさねまもるやまとしまねを」を連想してならなかった。人の命を守るために命をかける人がいるという厳粛な事実を思い起こすのである。
そしてこの鎮魂の歌が詠まれるきっかけとなった「美保関事件」の現場に行きたいと思ったのが旅の始まりだったのだ。

【美保関事件とは何か】


事件が起きたのは、昭和2年8月24日、島根県美保関沖にて徹夜で夜間無灯火演習でのことだった。
ここまで厳しい条件での訓練には、大正10年のワシントン軍縮条約締結が影響している。保有する艦艇を制限するこの条約は、英米5に対して日本は3の艦艇しか保有できない制限を課した。
もし戦う際に5対3の戦力差で勝てるのか、と危機感をいだいた海軍の将官を、東郷平八郎元帥は「軍備に制限は加えられても訓練には制限はありますまい」と諭した。
戦力差を埋めるための猛訓練中に起きたのが「美保関事件」であった。

演習は、舞鶴方面に撤退する戦艦を中心とした部隊を、高速の艦艇が闇夜に乗じて近づき魚雷攻撃する形で行われた。
攻撃側の先頭を走る軽巡洋艦「神通(じんつう)」は、サーチライトで照らされ発見されてしまう。「神通」は面舵(右折)を切るが、そこに後続する艦艇が突っ込んでしまった。

軽巡洋艦「神通」(5595トン)

軽巡洋艦「神通」(5595トン)にぶつかられた駆逐艦「蕨(わらび)」(850トン)は爆発を起こして二つに裂けて沈没。さらに避けようとした軽巡洋艦「那加(なか)」は、駆逐艦「葦(あし)」に衝突し、共に大きく損傷する。
すぐさま救難活動が行われたが、119名もの殉職者を出す大惨事となった。

加藤寛治連合艦隊司令長官は8月26日に新聞記者達に対し「今回の事件に多数の部下と艦とを損傷したことは長官としても恐くの至りである。しかしながらここに考へて頂きたいことは我々としてはベストをつくして訓練をやつた、もつとも真剣な訓練と絶対保安とはなかなか両立しがたいものである」と説明し、翌27日には舞鶴の水交社支社に全艦の各級指揮官を集め「艦船は新らたに得ることは出来ますけれども、幾年か練磨を積むだ忠勇なる戦友は、再び得べからず」と鎮魂の言葉を述べ「殊に此の際士気の作興に留意せられ、貴重なる教訓を全幅利用し、過般の災禍を転じて、帝国海軍有事の捷固たらしむる様、一層の奮起を冀う次第であります。斯の如くして、始めて戦友の英霊も莞爾として瞑目するのでありませう。之を要しまするに、五、五、三比率協定以来、我海軍の上下が心血を注いで遣つて来た先日の如き演練は、益々遣らねばなりません」と訓示し、猛訓練の継続を宣言した。
事件発生から四日後のこの宣言は後世から人命軽視と非難されるかもしれないが、後述するがどうしても継続されなければならなかったのだ。

【事件後に自決した水城啓次大佐】


衝突した「神通」艦長の水城啓次大佐は砲声を長年聞いたことで重度の難聴を抱えており、それが事故の遠因ではないかと推測された。国防の最前線で懸命に努力した結果、身体への負担が蓄積し、難聴を引き起こしたと考えるとあまりに悲しい話である。
責任を重く感じた水城大佐は、軍法会議の判決が下る前日の12月26日に自宅で自決した。
ちなみに水城大佐の姿勢に感銘を受けた伏見宮博恭王(当時海軍軍令部参事官)は、御付武官の差遣が妥当とする反対意見を押し切って告別式に参列し、遺族を感動させている。

【命を護るために命を捧げる人がいるという厳粛な事実】

殉難した駆逐艦「蕨」の機関長・福田秀穂少佐を偲んで、歌人・三井甲之は次のように詠んだ。

「ますらをの かなしきいのち つみかさね つみかさねまもる やまとしまねを」

美保関事件には、処分が無かった加藤寛治司令長官、徹夜での無灯火訓練の無謀さ、ワシントン軍縮条約の定める制限に日本の保有艦艇数はそもそも達していなかったなど後世様々な批判がある。
しかし、この歌を拝す時、軽々しく批評をする気になれなくなる。有事に散華した英霊はもちろん、平時においても、美保関事件や事件後に自決した水城大佐、そして今回の海保機の殉職者も、「ますらをのかなしきいのち」なのではないだろうか。
システムや組織の改善は大いにやらねばならない。しかし、人が命を捧げて多くの命を護っているという厳粛な事実には向き合わねばならない、というのが私の考えだ。
命がけの仕事に対して鈍感になれば道徳も社会も崩壊してしまうだろう。何よりそういう方の存在に対して胸が痛くなるのだ。

【境港市の台場公園に立つ慰霊塔】

まず、鳥取県境港市の台場公園に建立された美保関事件の慰霊塔に参拝した。
公園に入るなり、車の窓を叩いて「1000円貸してほしい」と言ってくる老女が現れて困惑したが・・・

境水道大橋の眼の前にある慰霊塔


この慰霊塔は地元住民の呼びかけにより事件の翌年に完成したものであり、高くそびえ立つコンクリート製の塔は今も海を行き交う船を見守っていた。
慰霊塔が地元住民の呼びかけであるということにも感動した。軍人の死に対して、何かしたいと考えた結果がこの慰霊塔なのではないだろうか。

地元住民の呼びかけで建立された高さ12,5メートルの慰霊塔
慰霊塔の中には駆逐艦の12㌢砲と機雷
台場公園の前を行き交う船を見守っている


慰霊塔の説明板

ただ、慰霊塔の説明板で気になったのは犠牲者120名となっていたことだ。資料やテレビ報道では119名になっているものが多い。
人が1名亡くなるというのは大変なことだけに、この真相は追求したいと思う。

【美保関事件の現場を見渡す美保関灯台】


境水道を超えて、半島の東端にある美保関灯台に行く。

美保関事件が起きた海域を臨む

さらに島根半島の東端にある美保関灯台に行くと、事件現場となった日本海を見渡すことが出来る。
下を見ると岸壁に打ちつける荒波が見えた。
この荒波をかき分けて命がけで訓練し、また闇夜の荒波に投げ出された殉難者達は如何に苦しかったであろうか。
胸がいっぱいになり、合掌することしかできなかった。

何故それほどまでに危険な訓練を実施したのか。その方法でしか我が国を護る方法を見いだせなかったからだ。優勢な英米の艦隊に対して、美保関事件が発生したような闇夜に乗じて切り込んで減殺し、なんとか戦力を互角にしようと考えていたのであろう。
この努力を無駄だ、無謀だと笑うのは後世の傲慢でしかない。

この重い事実と事故海域を前にして、やはり胸に去来するのは

ますらをの かなしきいのち つみかさね つみかさねまもる やまとしまねを

の歌だった。

南を見れば、かすかに大山の姿が見える

重く長い話ですいません。ただ、旅のきっかけであり、自分が大事にしたい慰霊の話しでもあったのです。

(出雲旅その5)美保神社 に続きます。


いいなと思ったら応援しよう!