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「恋の病」を治すために「熊野」へ(熊野旅その3)~「破局」噴火と南方熊楠記念館~


【前回までのあらすじ】


後輩の「恋の病」を治すため、蘇りの聖地を年始に巡る男二人。後輩が悩まされる恋の病は三所神社で少しカップルを見るだけで疼くほどの重症だった。先を急がねばならない。

【思ったよりデカい円月島】


「腹減った」と後輩が言うので、とりあえず昼食をとれる場所を探す。
三所神社から1キロほど北上すると円月島が見えてくる。

全長130メートルほどある円月島

円月島・・・思っていたよりデカい・・・南北に130メートルほどあるというから、自衛隊の護衛艦ほどある。

穴だらけの岩に海水がたまり足を取られやすい

足元の岩場にポツポツ穴が空いていることに気づくが、こりゃ火山岩じゃなかろうか。

【大量絶滅を引き起こした「破局」噴火】


話がまた横道にそれてしまうが、熊野とは「熊野カルデラ」であり、超巨大な火山活動の跡地なのだ。1400万年の噴火は地球気温を10度も低下させ、大量絶滅を引き起こしたというからすごい。

熊野カルデラの推定地。でかすぎる・・・

有名なトバ火山の破局噴火(人間が衣服を着るきっかけとなったと言われる)、210万年前のイエローストーンの破局噴火と並び「破局」という言葉を冠するのが、この「熊野カルデラ」である。火山活動が活発な場所に先人は神を感じ、聖地となってきた。実は地球環境を左右するほどの地のエネルギーが生成無限湧き出る熊野の地が「蘇りの地」となったのは当然のことなのかもしれない。しかし「恋の病」に苦しむ後輩には、火山現象といえども「破局」噴火の言葉は聞かせられまい。

【巨大エビフライを食べて少し回復】

サイズ感が狂う巨大エビフライ

さて円月島の眼の前に「さいかや」というレストランがある。ここで巨大エビフライを食すことになる。遠近感が狂うサイズでビビる。
決して安くはないが、お値段以上な満足感だった。

和歌山の偉人といえば「南方熊楠」、後輩も「見てみたい」と言う南方熊楠記念館を目指す。
さいかやの奥には「京都大学白浜水族館」があり、さらに奥には「南方熊楠記念館」がある。「これであってるのか」と不安になる道を直進していくと到着する。

南方熊楠記念館の看板

【日本人の可能性の極限・南方熊楠】


南方熊楠は明治から昭和にかけて活躍した博物学者で、あらゆることに精通する驚異的な能力と癖の強いキャラクターから、柳田國男に「日本人の可能性の極限」と呼ばれた怪人である。
なんだそのネーミングセンス、格好良すぎる。

猫楠ー南方熊楠の生涯 水木しげる

南方熊楠はもともと面白い人だと思っていたが、水木しげるの「猫楠」を読んでからその印象は強くなった。
半裸で和歌山の原生林を駆け回り、酒を飲んではしゃぎまわることが何より好きで、故にトラブルメーカーであり、百科事典を一度見ただけで全部記憶してしまう驚異的な能力を持ち、時には怪しげなものを見てしまう鋭敏な感覚を持っていた。
水木しげるが楽しそうに南方熊楠を語っているのがこの作品で、読者まで楽しくなってくる。

てんぎゃんー南方熊楠伝 岸大武郎

他にも南方熊楠を描く面白い漫画として「てんぎゃんー南方熊楠伝」があるが、この作品は打ち切りなのか、南方熊楠がロンドンに足を踏み入れようとするところで終わってしまう。

南方熊楠は、天文学、民俗学、博物学、民俗学、人類学、植物学、生態学などを縦横無尽に行き来して研究し、科学雑誌「ネイチャー」には様々な分野で51もの論文が掲載されている。おまけにフランス語、イタリア語、ドイツ語、ラテン語、英語、スペイン語を自由自在に話したというからすごい。
12歳の時に、日本の百科事典「和漢三才図会」105巻を記憶して筆写したことからもその記憶力は常軌を逸したものだったことがわかる。
誰もが認める天才でありながら異常な癇癪持ちで、キレたら誰に止められないほど暴れまわりトラブルが多かった。

【南方熊楠の嘔吐術】


汚い話しで恐縮だが、南方熊楠の不思議な能力として、いつでも嘔吐できるというものがあった。

「てんぎゃん」より、嘔吐を駆使して反撃するシーン

想像していただきたい。
ケンカをしていたら、相手が自分の顔をめがけて吐瀉物を吐きかけてくるのである。もうケンカどころではない。

防空壕のような施設・・トイレである

防空壕のようなトイレを超えて、坂を登る。
というか見た目が怖いなぁ・・・


【昭和天皇と南方熊楠】


結構な傾斜を登っていくと歌碑が見えてくる。御製(天皇陛下がお詠みになった和歌)碑だ。

昭和天皇御製「雨にけふる神島を見て 紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」

昭和天皇は昭和4年に南方熊楠のご進講を受けられた。そして昭和三十七年に行幸された際には、すでに南方熊楠は逝去していたが、回想されて詠まれた御製になる。

「猫楠」よりご進講のシーン

御召艦の戦艦「長門」艦上にて南方熊楠はご進講を行う。
傍若無人な南方熊楠であったが、昭和天皇に対しては恐縮し礼を尽くしていたという。破天荒な南方熊楠はキャラメル箱に収集した標本を入れてご覧に入れたが、これを昭和天皇は微笑ましく思われた。
「南方には面白いことがあったよ。長門に来た折、珍しい田辺付近産の動植物の標本を献上されたがね。普通献上というと桐の箱か何かに入れて来るのだが、南方はキャラメルのボール箱に入れて来てね。それでいいじゃないか」
南方熊楠の強烈な個性さえ包み込んだのが昭和天皇だったのだ。

昭和天皇の行幸を報じる新聞(昭和4年)

記念館内には昭和天皇の行幸を報じる当時の新聞が掲示されており、また悠仁親王殿下がご来館になったことも書かれていた。昭和天皇はじめ皇室の方々は南方熊楠の世界と親しまれ続けておられるのだ。
館内は、南方熊楠の膨大な研究資料が見やすく展示されており、学問の区分けを縦横無尽に泳ぎ渡った世界の一端を垣間見ることができる。

屋上からは南方熊楠が活躍した海を一望することができる。

【南方熊楠が護った神社】


日露戦争勝利後の第一次西園寺内閣から「神社合祀政策」が進められ、神社を各集落ごとに一つずつ整理して縮小しようとした。明治以降の欧化政策、合理政策の行き着く先であった。現在、日本の神社は8万社以上と言われるが、かつては20万社以上あったと言われるからこの政策の厳しさがわかる。
南方熊楠は、神社がコミュニティの中心地であること、地方が衰退しかねないこと、史跡など貴重なものがあること、貴重な自然があることなど具体的な弊害を書き連ねて反対の論陣をはった。多くの協力者を経て、明治43年(1910年)には終息させることに成功した。南方熊楠の指摘は共同体が衰退している今になっても通用するものであり、その目はあまりにも未来を見ていたのだと驚かされる。
後輩も一時と言えど「恋の病」を忘れて、共に南方熊楠の世界に浸っていた。世界にはこのような人が生まれることが生まれることがあるのだ。

(その4)へ続きます


【後輩のライフポイント】


エビフライを食べたので少し回復
🔴🔴🔴◯◯◯◯◯◯◯ 3/10

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