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「もやしっ子を御柱に!」ちょっとオカルトな中部の旅(その9)~「回天」を目指した黒木博司少佐 後編~



【前回までのあらすじ】


頭も顔も良いが、肝心な時に体調を崩しがちな「もやしっ子」後輩を、野性味あふれる聖地・諏訪の巨木御柱(おんばしら)まで育て上げようと、昭和のパワハラ親父精神で旅に出た。
諏訪大社→万治の石仏→松代大本営跡→象山神社→回天楠公社と巡ってきた。回天楠公社に祀られる「回天」を考案した黒木博司少佐、そして「特攻」について前回から引き続き、考えてみたい。

【回天楠公社と黒木博司少佐】

前回と重なる部分もあるが、改めて簡単に説明しておきたい。

回天楠公社

「回天楠公社」には、「回天」考案者の黒木博司少佐はじめ「回天」で殉職した138柱が祀られる

黒木博司少佐
「回天」の姿が刻まれている。

黒木博司少佐はここ下呂で生まれ育ち、勉学優秀だが思いやり深い青年として生まれ育った。戦場の現実を知って国の行く末を危惧した結果、「回天」を考案した。渋る海軍であったが、戦局の悪化から昭和19年7月に認可し9月より訓練を開始した。しかし、考案者の黒木少佐が22歳の若さで殉職してしまう。
しかし、残された訓練員たちは黒木少佐の思いを受け止め、士気はむしろ高くなり、訓練再開を求める声があふれていた。

【なぜ「特攻」は若者に受け入れられたのか】


この後、海軍は昭和19年(1944年)10月25日に23歳の関行男大尉率いる「敷島隊」を出撃させ「特攻」を始める。敷島隊は、護衛空母「セント・ロー」を撃沈、他に護衛空母「カリニン・ベイ」「キトカン・ベイ 」「ホワイト・プレインズ 」3隻を損傷させるという大戦果をあげる。

敷島隊の突入で爆発炎上するセント・ロー


一方で正攻法での戦いでは、戦艦3隻、空母4隻、重巡洋艦6隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦9隻を喪失する大損害で連合艦隊は壊滅、目標であったレイテ湾への突入も連携ミスにより未達成という結果に終わっている。
囮の空母部隊を米軍が追いかけ戦力分散させることに成功してもこのような結果になった。通常の戦いでは如何に策を弄しても一方的な敗北が待っていた。
「特攻」こそが戦力差のある米軍に痛打を与える唯一の手段と認識されていったの納得できる。

もちろん高い操縦スキルを持った関行男大尉のようなパイロットだからこその戦果でもある。その後、「特攻」は訓練期間が足りないパイロットによって行われて命中率は下がる。
「特攻」での戦死者は海軍4146人陸軍2225人計6371人にもなる。一人ひとりに違った人生があったことを思うと、その重みを受け止めずに戦果を誇示することには抵抗がある。
しかし、それでも戦力の低下した日本軍において最も有効な攻撃だったことは客観的に認めなければならない。連合軍全体では、戦死者12260名負傷者22769名に達したという推計があり、まさに一人の命で多くの敵を倒す戦法だったと言える。

敵との交戦ではなく、病や飢えで若い命を散らす戦場の現実があった以上、せめて意味ある死を迎えたい、と思う心情に共感できないだろうか。


【亡くなった戦友の足音を聞いた大伯父】


ここで私の大伯父(祖父の兄)の話しが、当時の心情を偲ぶために役立つかと思うので、少し横にそれるがお許しいただきたい。
大伯父は南方戦線へ向かうため輸送船に乗ったが、魚雷で撃沈されて海に投げ出されてしまう。
恐ろしいことに船が沈むと、船の破片が浮力で急激に浮かび上がりそれにぶつかって傷つく人がいたらしい。さらにサメに襲われる人、体力が尽きて沈む人、それは大勢が亡くなったという。
大伯父が必死に泳いで、陸に上がると部隊は半数に減っていたという。
夜になると、歩哨(見張り)が青ざめて「誰かが行進している」と報告しに来た。大伯父が見に行くと、誰もいない暗い砂浜に「ザッザッザッ」という軍靴の行進音が響いていたという。一人ではなく、大勢が歩調を合わせて行進をするような音だったという。だが、誰も見えない。
直感的に大伯父は、海で亡くなった戦友たちが、死んだことに気づかずに、まだ戦おうとしているのだ、と感じ、心が痛かったという。
海で死ぬよりも、せめて敵と戦いたかったのだろう。

【22歳の青年が形にした「特攻」】


「特攻」とは年齢が高い人間が若い人間に強要したイメージが先行している。
しかし、実際は22歳の青年が仲間とともに必死の嘆願で、海軍という巨大組織を動かしたことがきっかけだった。
黒木少佐の実家には戦後になって、回天を作ったことを責める声が届けられたようだ。ご家族にとっては辛いことだっただろう。
だが、「百人の人に笑われても一人の正しい人に誉められるよう、百人の人に誉められても一人の正しい人に笑われないよう」という母の言葉を貫いた人生が生み出したものが「回天」だったのだろう。
おそらく後世の批判も承知の上で、尚作り上げたのが「回天」であり、のちの「特攻」だったのだと思う。

【「特攻」をそのままに受け止める努力】


言い訳のように何度も言うが、大切なことなので繰り返したい。
私は「特攻」を両手を上げて素晴らしいと言いたいわけではない。むしろ私のように特攻の重さを経験したことない人間が軽々しく「素晴らしい」など言ってはならないだろう。
また、私が語る事情とは違う状況だった方もおられるだろう。
ただ、「特攻」で散華した方お一人の人生を大切にしたいと考える者である。苦しみ、悲しみと共にその決意と向き合わねばならないと思っている。

戦争ではない平時における論理を振りかざして、有事の行動をあれこれ評価するのは傲慢ではないだろうか。
決断とは時代状況の中に生起するものだと思う。最近、昭和の文化をパワハラと面白がる空気があるが、あれもその時代の空気では善と捉えられたことであり、それを今から振り返って非常識と謗るのは如何なものか、と思うことがある。そんな姿勢で生きていると50年後、100年後の人に私たちは非常識だと笑われることだろう。

私は、ただ、なぜ「特攻」に人生を賭けた方がいたのかきちんと偲びたいのだ。

人が亡くなっていることの重みを受け止めるとは、抽象的な生命尊重論を唱え続けることではない。人一人が為した業と意義を受け止め、決して無かったことにしないことだと思う。

お一人お一人の名前が刻まれている。
黒木少佐が師と仰いだ平泉澄博士による碑文
下呂の光景を今も見ておられるのだろうか

回天楠公社に手を合わせ、その思いと向き合って生きていくことを誓った。

※今年(令和6年)は特攻から80年の節目の年だが、この下呂で感じたことを柱にまた「特攻」について考えていきたい。


回天楠公社から近い「平和の塔」

さて、そろそろ下呂を去る時間である。

「もやしっ子を御柱に!」ちょっとオカルトな中部の旅(その10)~「下呂」からの帰還~へ続きます

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