「恋の病」を治すために「熊野」へ(熊野旅その9)~紀伊大島で感じる日本とトルコの絆~
【前回までのあらすじ】
後輩が年末に患った「恋の病」。なかなか良くならない「恋の病」を治すため、年始早々に蘇りの聖地「熊野」を目指す男二人。道中様々なダメージを受けるが、蘇生伝説のある「つぼ湯」にて奇跡の復活を遂げたのだった。しかし、宿泊施設の段差にぶつかってしまい精神的なダメージをくらってしまう。
【きれいな海に手袋が浮いている】
橋杭岩からエルトゥールル号遭難事件の地・紀伊大島が見えている。
海は透き通って本当に綺麗。何故か片方だけの手袋が浮いていた。
【トルコの軍艦・エルトゥールル号遭難事件】
事件が起きたのは、明治23年、西暦1890年のことである。
日本では大日本帝国憲法に基づき帝国議会が開院し、アジアの近代国家として歩みが始まっていた。
逆にオスマントルコ帝国は、かつての強国の面影を失いつつあり、非キリスト教圏の上り龍・大日本帝國と関係を密にしようと考えた。
皇族・小松宮彰仁親王のイスタンブール訪問から関係が深まり、皇帝アブデュルハミト2世は軍艦エルトゥールル号を日本へ派遣して、明治天皇に勲章と親書を奉呈しようと考える。
すでに艦歴26年の老朽艦だったエルトゥールル号は1889年7月にイスタンブールを出港し11ヶ月かけて横浜港にたどり着く。
歓迎を受けた使節団は任務を果たし、1890年9月15日に帰路へ出港しようとする。日本では台風の季節であると心配する周囲を振り切って出港したエルトゥールル号は、紀伊半島沖で暴風雨に遭遇する。強風にあおられた艦体は紀伊大島の樫野埼に叩きつけられ、水蒸気爆発を起こし乗組員600名以上が荒天の海に投げ出されてしまった。
生存者のうち数名が崖をよじ登って、灯台守に事故を伝える。もちろん言葉が通じないので国際信号旗を駆使して意思疎通を行った。
急報を受けた大島村の沖周(おきあまね)村長は村人を動員しての救援活動を始める。それは非常食すらも差し出す徹底したもので、乗組員656名中、69名が救出された。
事件の20日後の10月5日には、大日本帝國海軍の「比叡」「金剛」2隻が生存者を乗せて出港し、1891年1月2日に無事イスタンブールまで送り届けた。オスマン帝国の人々は遠い異国・日本の手厚い対処に好意を抱いたという。
そして、事件の地・紀伊大島を、日本・トルコ友好の地とすることになったのだった。
「エルトゥールル号遭難事件」は大変な悲劇だったが、トルコと日本の友好の架け橋となった。トルコと日本は第一次世界大戦で敵対勢力になったり紆余曲折あったが、底流には友好感情が流れ続けていた。
【海の恩を空で返す】
さて事件から95年後のイラン・イラク戦争でのことである。
イラクは、48時間後からイランの上空の航空機を全て撃墜すると宣言した。イランの首都テヘランに取り残された邦人を救ったのは、なんとトルコの航空機だった。オルハン・スヨルジユ機長は自らフライトを志願したという。「トルコは海の恩を、空で返した」と言われた。
このエピソードは映画「海難1890」で描かれている(少し実話と異なる形ではあるが)。
【朝早すぎて誰もいない】
トルコアイスやお土産店もあったのだが、朝早すぎて全然対応していない。これから回らなきゃいけない場所が多いので仕方ないとは言え、残念だ。
【トルコの国父・ムスタファ・ケマル・アタテュルク】
トルコを近代化させ国父と呼ばれた初代大統領アタテュルクの騎馬像がある。
「ムスタファ・ケマルに聞いてみよ、のムスタファ・ケマルですか?」と後輩が言ってくるが、そもそもその諺を知らないのでなんとも言えない。
【後輩のライフポイント】
🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴◯◯◯ 7/10
日本・トルコの歴史に感動して少し回復