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神話と現代の境目へ(出雲旅その9)~神代から切れ目なく続く出雲大社 前編~



【前回までのあらすじ】

令和6年元旦に起きた震災で心に期するところがあった野郎二人。出雲を目指して旅することになった。しかし、時間は1月4日の夕方から5日の夜まで、約24時間しかない。「24 -TWENTY FOUR-」のように緊迫した「中国大回転」旅が今始まる。

福山駅→米子駅前スーパーホテル→赤猪岩神社→清水井→境台場公園「美保関事件」慰霊塔→美保関灯台→美保神社→参道である青石畳通りと佛谷寺→「神仏の通い路」を通って島根半島を西へ横断→出雲に到着して八雲立つ下で出雲そばを食べる→出雲大社へ向かう←イマココ

【激混み駐車場】

出雲そば「かねや」から出雲大社は歩いていけるくらいの距離にある。
車で出雲大社近くまで来ると、広大な駐車場があるが、激混みであった。
臨時アルバイトなのだろうが、手慣れていない誘導員が大勢いて、なかなかどこに行ったら良いのかわからなかった。なんとか駐車し歩き始める。

駐車場から本殿に向かうと参道の途中から入る形になる。
「うゅじんま」ってなんだろうって思ってしまった

【出雲大社の隣にある出雲大社教(いずもおおやしろきょう)とは?】


出雲大社教(いずもおおやしろきょう)の神楽殿に掲げられた日章旗の大きさに驚く。
巨木のようなしめ縄もあるし、こちらが出雲大社の本殿だと勘違いする人がいるのではなかろうか。

実際、出雲大社教は全国いろんなところで見かけるし、どういう団体なんだろうと思っていた。
そもそも出雲大社の隣に本部があるし、神職が兼務しているなど違いがわかりにくいが、事の起こりは明治にまで遡る。
明治13年に東京都日比谷の神道事務局に設けられた神宮遥拝所において、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、神産巣日神(かみむすびのかみ)、天照大神(あまてらすおおみかみ)の4柱を祀ると決定された。それに対して、大国主神(おおくにぬしのかみ)も祀るべきだとの意見があり、激論の末に却下された。
さらに明治15年には「神官教導職分離令」により、出雲大社に勤務する神官が国家とは別に独自に出雲信仰の布教を行うことが禁止された。西欧を参考に近代化する明治日本だったが、八百万の神の国家統制のような状況となった。
これに危機感を覚えた第80代出雲国造・千家尊福(せんげたかとみ)は、出雲大社宮司を辞任して、独自団体「神道大社教(後に出雲大社教)」を設立して出雲の信仰を護ろうとしたのだった。
今でも出雲大社は神社本庁傘下であるが、出雲大社教は傘下ではなく自由に行動しやすい組織体を残していることになる。

【そもそも出雲大社とは】


そもそも私たちが認識している「出雲大社」は古代より「杵築大社(きずきたいしゃ)」と呼ばれていたが、明治4年に出雲大社と改称したので「杵築大社」時代の方が遥かに長いことになる。
ちなみ出雲大社サイトには読み方は「いづもおおやしろ」と書かれている。
さらに文献によって呼び方がまちまちというのも面白いところ。

・古事記ー「出雲石之曽宮」
・日本書紀ー「天日隅宮」「出雲大神宮」「厳神之宮(いつかしのかみのみや)」
・出雲国風土記ー「所造天下大神宮」「天日栖宮」
・釈日本紀ー「杵築宮」
・八雲御抄ー「出雲宮」
・和漢三才図会ー「杵築大神宮」
・国花万葉記ー「大社杵築大神宮」
・延喜式ー「杵築大社」
・享保集成総論ー「出雲国大社」
・真言宗正林寺蔵版木ー「日本大社」

ここでは便宜上「出雲大社」と呼ばせていただく。
創建は諏訪大社美保神社でも触れた国譲り神話に由来する。

大国主神は国譲りに応じる代わりに「我が住処を、皇孫の住処の様に太く深い柱で、千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこに隠れておりましょう」と巨大な神殿を求め、「多芸志(たぎし)の浜」に「天之御舎(あめのみあらか)」を造ったと言われている。

大林組による古代の杵築大社 再現図
この図を学生時代に見た時、古代の高層神殿のロマンに夢中になった

創建された社殿は、平安時代の時点で高さ16丈(48㍍)もある巨大な神殿であった。平安時代以前にはなんと倍の32丈(96㍍)の高さであったと伝わっているから驚愕する。
平安時代の48㍍の高さでも現在の出雲大社の高さ24㍍の2倍であり、とんでもない大きさである。


大林組が古代の高層神殿の再現検証を行っており、大変面白いのでぜひご参照ください。

平安時代の貴族の児童向け教科書「口遊(くちづさみ)」には、「雲太(出雲大社が一番)、和二(大和東大寺の大仏殿が二番)、京三(平安京の大極殿が三番)」と書かれている。当時高さが45㍍あった大仏殿より高いことになる。

天津神に国譲りを行った大国主神だったが、対立していたわけではない。映画や漫画などフィクションの世界では、この神話を征服として描き、やたら対立させる傾向にあった。
このモヤモヤを解消した福音が、代々出雲大社を護ってきた出雲国造の千家国麿氏(出雲大社権宮司)が平成26年に、皇族の典子女王と婚姻されたことだった。

国譲り神話の末裔が一つの家となられるのだ。なんだか神話がまだ続いているようだ。

【出雲国造・千家家とは?】

「出雲大社教」のところでも「千家」というお家のことに触れたが、こちらは天穂日命(あめのほひのみこと)を祖神としている。天照大御神と須佐之男命が誓約(うけひ)をした際に、天照大御神の右のみずらに巻いた勾玉から誕生した神である。

これが「みずら」である

「古事記」「日本書紀」ではもともと国譲りの説得に遣わされた神であったが、大国主神に心服して、3年間も高天原に戻らなかったため、建御雷神(たけみかづちのかみ)が遣わされたとある。そして国譲りの後は大国主神に仕えるようになったとされている。
ただ、子孫にあたる出雲国造が唱える「出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)」では高天原への報告も欠かさず、地上平定のために奮闘した英雄神として描かれている。

出雲国造の任命は都で行われ、そこから出雲に戻って1年間潔斎を行って、改めて都にて天皇陛下の前で唱えるのが「出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)」なのだ。

出雲大社の千家尊祐(せんげたかまさ)宮司が84代國造にあたる。
同じ天穂日命を祖神とする士族に土師氏(はじし)がおり、日本最初の角力をとり、殉死者の代わりに副葬する埴輪を発明した野見宿禰が有名だろう。
神話と現代まで断絶無く続いているので不思議な感覚になる。

【雲間から光が差し込む】

本殿前に行くと、パラパラッと小雨が少し振ってきた。
見ると叢雲が見える。

雲が空を覆って暗くなってきたのに、遥か南西にある海の方角には、雲間から光が差し込む神々しい光景が見えた。

本殿を拝すると、今度は晴れ間が広がってきて、パァァァァと明るくなってきた。
常に八雲立つ出雲地方ではありふれた自然現象なのかもしれない。
だが、雲間から光が差し込み、晴れ間が広がっていく光景には、神様の存在を感じる。私たちより遥かに感受性が高かった古代出雲の人々にはもっと感動深く写っていただろう。

【皇族も旧宮家も等しく記す札】

本殿前に立て札がある。
天皇陛下から御下賜金、そして宮家の方々が神饌料を治められている

出雲大社平成の大遷宮に際して、皇族の方々から賜ったご支援が記されている。
ひときわ高い札に「天皇陛下」「御下賜金」と書かれており、少し下の札には
・秋篠宮
・常陸宮
・三笠宮
・彬子女王
・桂宮
・高円宮
と皇族の方々が記されている。

ここで驚いたのは、さらに
・伏見家
・久邇家
・朝香家
・東久邇家
・北白川家
・竹田家
と記されていたことだ。
昭和22年まで、それぞれ「伏見宮」「久邇宮」「朝香宮」「東久邇宮」「北白川宮」「竹田宮」として皇族の地位にあった方々だ。
GHQが皇室弱体化のため、皇籍離脱に追い込んだ11宮家の方々になる。
昭和天皇は、占領政策による不本意な離脱であり、今まで通りの付き合いを望まれ11宮家の当主に話したという。そして親睦団体「菊栄親睦会」を設立して交流を続けられた。
私たち現代人は、占領政策が終了して70年以上が経過しても未だにGHQの政策に影響されて生きている。
しかし、ここ出雲の地では、皇籍離脱した皇族の方々も隔てなく、天照大神の子孫として大切にされているのだと感動した。

神話と現代の境目へ(その10)~出雲大社後編~へ続きます




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