アイツの背中
彼のどこが好き?と聞かれれば
「大っきくてあったかい背中!!」
と答えていた頃が懐かしい。
初デートの帰り道、転んだ私をおんぶしてくれた彼。彼の大きな背中から感じる温かさが大好きだった。
それがいつからだろう、私たち二人の時間が徐々に無くなっていったのは。
彼が疲れ切っているのはわかっていた。
仕事は残業続きで帰る頃にはもう日付が変わっている。
髪の毛は寝癖のまま、ワイシャツとスーツはシワだらけ、髭も伸び放題。
人が身だしなみに気を遣えなくなった時は要注意。
それはきっと内側の痛みが外側へ侵食してきた証だから。
それに加え、私は彼が家に帰る頃にはもう寝てしまっている。
そりゃ、最初の方は起きててあげよう!なんて思ってたけど私も仕事をしている身なのでやはり疲れる。というかほぼソファで寝落ち。
挙句、
「待たれるのもしんどい」
という彼の会心の一撃によりもう起きていることは無くなった。
そんな私たちが顔を合わせるのは朝ご飯の時だけ。
朝ご飯は一緒に食べるという暗黙のルールが私たちを辛うじて繋ぎ止めてくれていた。
「いただきます」
昨日スーパーで安かった菓子パンを食べる彼。
「今週末は休み取れそう?」
「まだわかんないよ」
「そっか、わかった」
「ご馳走様」
沈黙を誤魔化すように流れるテレビの音。
今年はもう梅雨が明けたらしい。紫陽花観に行きたかったなぁ。でもそれだけが私を寂しくさせているのではない。
この空気に慣れてしまった自分がいることがなりより私を寂しくさせているのだ。
付き合って5年、同棲を始めて2年半が経過し周りからはそろそろなんじゃない?なんて言われるようになってきた。
しかし、今の彼と私はお世辞にも仲良しとは言えない。
毎朝見る彼の背中は出会ったあの頃よりもずっと小さく、とてもじゃないけど好きになんてなれない。
はぁ、
彼を見送った後につく特大のため息。
ちゃんと話したいけど今の彼とまともな会話ができるのかが不安で仕方がない。
その思いを胸にしまい私もまた家を後にする。
仕事帰りに寄るスーパーが好きだ。
綺麗に並べられた商品はどれも輝いて見え、全部買いたくなってくる。
訳もなく棚の間を行き来しそれを眺める。
至福のひと時。
半額になったパンでも買いに行くか、
そう思って店内を歩いていると、ふと、甘い香りが鼻を掠めた。
良い匂い。匂いがする方へ足が進む。
どうやら果物コーナーの方から漂ってきている。
見つけた。
可愛らしく丸みの帯びた表情は真っ赤に染まっている。
そこには林檎があった。
あ、彼林檎好きだったよな。
思い出した。弘前生まれの彼は地元の特産品をこよなく愛していた。
酔って帰ってきた日、私には理解不能な津軽弁を喋り地元から送られてきた林檎をそのまま齧っていたっけ。
そんな愛おしい姿が私の中に湧き出てくる。
よし、買っていこう。
淡い期待を抱きその日は菓子パンと林檎を1つ買って帰った。
次の日の朝、食卓には菓子パン、そして皮を剥いた林檎。
彼がどんな反応をするのかとても楽しみだった。
「いただきます」
じっくり彼の食べる姿を観察する。
林檎に手に取り、そのまま口へ運ぶ。
顔色一つ変えず咀嚼し、飲み込む。
「ご馳走様」
そう言った彼は席を立ち仕事の準備を始めた。
嘘だろ。
美味しかったとか、買ってくれてありがとうとか、何もないの。
なんか、なんか言ってくれよ。
しかし裏を返せば彼は今、大好物なものを目の前にしてもその心動かされないのだ。
終わった。期待した私が馬鹿だった。
これから私はどうすれば良いんだろう。
途端泣きたくなってきた。
グッと涙を堪え彼の背中を見送る。
それから朝食に林檎が出ることは無くなった。
1週間が過ぎた。
いつもと変わらぬ平日の朝。
今日、彼に伝えようと思う。
考え抜いた結果だった。
いつものように朝ご飯を食べる彼。
「あのn、」
「今日林檎ないの?」
それは突然だった。
「えっ、」
気の抜けた返事を返す私。
「いや、林檎。あるなら食べたいと思って」
「そ、そっか。そーいえば好きだったよね林檎」
「今も好きだよ」
久しぶりに聞いたその2文字は私じゃないとわかっていても嬉しかった。
それに気づいた瞬間思いが溢れてきた。
私、まだ彼のことが好きなんだ。
「今週末休み取れそうだから美容室予約した。一緒に行く?久々に」
「えぇ、あ、いや、違くて、うん。行く」
「よろしく、ご馳走様」
そう言って支度を始める彼。
思いもよらない事態に頭が追いつかない。
これは夢なのか。
ふと、玄関先へ向かった彼の足が止まった。
「あの、あれだよ、林檎出してくれたの嬉しかったからその、ありがとな。いってきます」
そう言った彼はいつもより早足でその場を離れる。
唐突に始まったそれは胸に詰まった感情を柔らかく溶かし、流れ出してくる。
「いってらっしゃい」
ちゃんと言えていただろうか。
そう言って見た彼の背中は涙越しでもわかるくらいに私の大好きな背中だった。
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