125 ちょっぴりほろ苦いプラムの味
私が中学1年生の時のことです。友だちがお弁当といっしょにおいしそうなプラムをたくさん持ってきてみんなに配ってくれました。当時プラムはそれほど一般的ではなくどちらかと言うと贅沢な食べ物で、私は食べたことがありませんでした。だからとても嬉しかったです。みんなが喜んでいるので友だちも得意げに配っていました。
私はもらって口に入れました。甘酸っぱいかおりが口の中いっぱいに広がりました。こんなにおいしいものがあるんだと感動しましたことを覚えています。
ただそのあとがいけなかったです。私は食べたあとのプラムの芯を2階の窓から放り投げたのです。なぜそんなことをしたのか自分でも全然わかりません。やってはいけないということはわかっていました。でもなぜか投げてしまったのです。食べるのさえ惜しいほどその味を楽しんでいたのですが… 私の手から放り出されたプラムの芯は校舎の窓から弧を描いて飛んでいき、学校のすぐ裏にある家の庭先に落ちました。そのとき初めて私は「しまった!」と思いました。
翌朝、担任の先生が学活で言いました。「昨日、校舎の窓から果物を投げた者がいるようだがまさかこのクラスにはいないだろうな」と。先生は本当にいないと思っているようでした。だから私が手を挙げた時はびっくりしたようでした。残念そうでもありました。
とても厳しい先生でしたので私はこっぴどく怒られると思いましたが、先生は静かにこう言っただけでした。「いないと思っていたんだけど残念だな」私は先生を裏切ってしまったことを申し訳なく思いました。
そのあと叱られることを覚悟で職員室の先生のところに謝りに行きました。すると先生はこう言いました。「何でそんなことをしたのかは聞かない。きっと自分でもわからないんだろう。でも二度とするなよ」
そして「やったことを自分でよく考えてそれをこの先に活かしなさい」と言いました。
遠い日の出来事ですが生徒が何か問題を起こすたびにこの時の記憶が蘇ってきます。そして指導をしながら自分に言い聞かせることがあります。それは明確な理由を求めなくてもよいということです。私がプラムの芯を投げたように、行為の裏に明確な理由があるとは限らないからです。「なぜそんなことをしたのか」と聞かれて本人にもわからず答えられないことはあると思います。いけないとわかっていてもやってしまうこともあります。だから教師はあれこれ聞き出そうとするよりも、自分のした行為について本人にしっかり考えさせることが大事だと思います。
自分の失敗から学んだことです。