ディズニーイチ難しい?「ノートルダムの鐘」徹底考察(前編)
ディズニーイチ難しい&大人向けの話だと言われる「ノートルダムの鐘」。
小さい頃からディズニーを観て育ったハッピーエンド脳だったので、主人公のカジモトとヒロインのエスメラルダが結ばれない展開に衝撃を受けたのを今でも覚えています。
ここでのハッピーエンドの意味やテーマについて、ディズニーイチ難しいと噂されるこのお話を考察したいと思います。
あらすじ
ノートルダムの鐘のテーマとテーマ曲考察
ノートルダムの鐘のテーマは「見た目・地位・人種より中身が大切」ということ。
同様のテーマは、醜い野獣に姿を変えられた「美女と野獣」や、王子ではないアラジンが偽りのない姿を見せるか葛藤する「アラジン」でも描かれてますね。
ノートルダムの鐘のテーマ曲、「The Bells of Notre Dame」(これめちゃめちゃいい曲なので聴いてほしい)の歌詞が
オープニングでは、
Who is the monster and who is the man?
(誰が化物で、誰が人間なのか?)
なのに対し、エンディングでは
What makes a monster and what makes a man?
(何がモンスターたらしめ、何が人間たらしめるのか?)
と変化するのにも、本作品のテーマを感じます。
石像はイマジナリーフレンド?
主人公のカジモトには石像でできた3人の友人が登場します。
この3人の友人、「心の優しいカジモトは石像と心を通わせられる」と捉えるのか、
「この石像はカジモトのイマジナリーフレンドである」と捉えるのかによって、大きく印象が異なると思いますが、私は後者と捉えました(あくまで私は)。
作中でカジモトと同様「心のきれいな人物」として描かれるヒロインのエスメラルダは、石像とは話せていなかったですし。
そう捉えると重要なのは、石像たちの言葉は、カジモトの心の中の言葉だと捉えられるんですよね。
つまり悪役・フロローの言いつけを破れというセリフや、ヒロイン・エスメラルダについてカジモドを茶化すセリフ。
上げればキリがないですが、これらは、すべてカジモドの隠れた本心なのです。
カジモドは自分の「心の声」に基づいて大聖堂を飛び出したともいえます。
悪役が自分を正義だと疑ってない感じが刺さる
今回の悪役フロローの特徴は、自分こそが正義であると一ミリも疑っていないこと。
その自信はおそらく、自分が正しいキリスト教信者だと信じており、だからこそ判事になったのだと信じていることから来ているのだと思います。
だからこそ、彼にとってジプシー狩りは正義であり、
彼自身がエスメラルダに恋心を抱いた(踏み込んで言うと性欲を抱いた)ことが許せないのでしょう。
ちょっとめちゃくちゃな気がしますが、「正しいキリスト教信者である私に性欲を抱かせたジプシーはやはり悪だ」という思想になっているのかと。
また実際に、判事まで登り詰めているフロロー。
当時の価値基準では、民衆にとってもジプシー狩り・差別は正義だったのだと考えられます。
しかし、フロローはエスメラルダへの想いからやりすぎてしまうわけですが・・・
なので、フロローとカジモトの戦いは、
「正義」×「正義」の戦いでもあるわけです。
そんな自分を正義だと疑っていない悪役から、自分自身の正義・価値基準を考えさせられます。
後編では
後編では、主人公カジモトの恋について考察します。
また、本編で登場する隠れキャラクターについてもご紹介します。
ご覧いただきありがとうございました!