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深海に漂う⑨

急いで、家に帰る。
これまでの経験上、今動かないと、また私はこの気持ちをなかった事にしてしまう。
その方が、平穏に暮らせるから。

でも、何故かこの気持ちは、消してはいけない気がした。
私の奥底の深い場所から、落ち着かない気持ちが湧き上がってくる。
深海で溢れた小さな泡が、海面に近づくにつれて大きくなるように。
逢いたさが急激に心を占める。
あの日、
泣けない私を泣かせてくれた人。
困ったような顔で、でも離れずそばに居てくれた人。
そして、朝まで、ただただ包んでくれていた人。
その香りの記憶が、胸を締め付ける。
環さんに逢いたい。
何故、無かったことにできると思ったのか。

焦燥感に引っ張られるようにして、あつさんの店を訪ねる。
臆病な私は、半年も前のあの日借りたスウェットの上下を持って行く。途中で簡単な手土産を買って、お礼とお返しの体であつさんのお店を訪ねる。
もう、忘れられているかもしれない。
何かが変わっているかもしれない。
そんな不安と共に、あつさんのお店の扉を開ける。

「まだ、準備中だよ。」と言う声と共に、カウンターの中で仕込みをしていたあつさんが顔を上げる。
「お、律ちゃん、時間ある?ちょっと手伝って。」と、昨日も会っていたかのような言葉。
少し戸惑いながらも、あつさんらしさにホッとする。
エプロンの紐を後ろでギュッと結ぶその行為で、自分の中で何かが固まった気がした。
夜の営業に向けて、大根の皮を剥いて面取りをする。
「昨日のお客さんがね、最近の天気は、来週行く釣りは…」等、楽しそうにあつさんが話すのを聞きながら、黙々と剥いていく。
煮しめ用の野菜の準備。人参、レンコン、ごぼう…。
あつさんと並んで、下ごしらえを行なっていく。
「環さ、あれから、ずっと律ちゃんの事、心配してるよ。口に出したりしないけど、律ちゃんを拾ったあの海岸によく行ってる。」
何気ないように話すあつさんだけど、本当はそれ以外に言いたい事があるんだと感じた。それはきっと、環さんと過ごしてきた時間の何かだ。
環さんに会わずに帰ろうかと、少し躊躇する。私はいつも、こうやっていろんな想いを諦めてきた。
それに気付いたのか、あつさんが、ごめんと少し笑う。
あつさんも、私と同じなんだ。
私達は、きっと似ている。同じように、周りの気持ちを優先する。
俯いて暫く黙った後、また少し笑ったあつさんが、
「自分が言う事じゃないのは分かってる。分かってるけど…。」と話し出す。
「環はね、本当に不器用だし、自分の心から目を背けてる…いや違うな。自分の心に気付かない事があるんだよね。無理して変わる必要はないし、環がそれでいいならそれでいいと思ってる。でも、律ちゃんを拾って来たあの日、少しいつもの環と違ったんだよね。上手く言えないけど。凪の水面で魚が跳ねるように、環の中で何かが跳ねた気がする。時が経てば、その水紋は消えていくんだけど…。」
言葉が途切れ、包丁の音だけがリズム良く流れる。
黙って手を動かし続け、最後のレンコンを切り終わった時、意を決したようにあつさんが言葉を搾り出す。
「律ちゃん。
環は、分かりにくくて難しくて、厄介なヤツだよ。そして、繊細で傷付きやすい。もし、本気じゃないなら、このまま帰ってもらえないかな?何も始めないで…。」 
環さんを大切に思ってるのが、痛いくらいに伝わる。
ちゃんと応えなきゃ。ちゃんと応えたい。
「…ん。
私、今、この気持ちを手放す事はできない…。できなかった。
でも、大丈夫。何かしようとか、どうにかなりたいとか、そんな事思ってココに来た訳じゃないから。」
綺麗に切り揃えられた野菜たちを見ながら、次になんて話せばいいのか考える。

「なかった事にして、忘れていく事はできなかった…から。
…だから、今ココに…。
ただ、逢いたいと思ったから。
もしかしたら、この想いは間違ってるのかもしれない。見ないふりする方が、良いのかもしれない。でも…。
でもね、コレだけは約束できるから安心して。環さんを傷付ける事は、絶対にしない。私の想いを、ぶつける事もしない。だから、少し時間を下さい。」
伝わったかな。
口にはできないけど、
不真面目でも、刹那的な気持ちでもない。私の心の奥に、深い場所に、いつの間にか居座ってる環さん。
その人を知りたい、できれば触れたいし触れて欲しいっていう気持ちが、私の中にあって、それを大事にしたいと思っている事が。

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