パリ ゲイ術体験記 vol.20 「お人好しは育ちか性格か?」
「フランス人ってケチなんですか?」と日本に帰るとたまに訊かれる事がある。
誤解を恐れずに単純に即答するならばイエスと答えるところだけれど、ケチな人なんてのはどの人種にも一定の割合でいそうなのに、フランス人がケチというのが特に意外だったりするのだろうか?
フランス人は日本人みたいに他人からどのような目で見られているか的な事を気にしない人達であるから、それらの人の実態は日本人よりも確かに良くわかる。 それを気にも隠しもしない国民性みたいなものが、一層ケチをケチたらしめている感じがしている。
オモテナシの国ジャポンには、お中元やお歳暮の儀礼的な習慣があったり、日常の暮らしの中でも種々の祝い事や粗品や御礼の品お返しの品…などの物品やお金が動く数多の機会があるから、それらの行事やしきたりを全く排除して生活することは極めて難しいと思われる。
だから、たとえケチ人間でも最低限で参加はしている筈である。それでもケチ力が勝って無視をするならば、それはケチとかの範疇を超えて非常識とか無礼といったレッテルを貼られてしまうから。
だから、しぶしぶでも最低限のつきあいに参加しているならば、ケチ人間でもそうそう救いようのない陰口を叩かれる事もないのが日本ではなかろうか。
私はフランスに住みだしてから30年にもなるが、悲しい事にいまだに日本的物品交流という仕組みというか文化から抜け出せていない。
日本帰国の際には、身の回りの着替えなどの荷物を遥かに勝る量の土産を両国サイドで調達し、アレコレ考えて分配する仕事に追われる。
普段の時でも、日本に高齢の親を置いたままにしている身として、親が特に日頃からお世話になっている人への季節の贈り物も考える。
日本からパリにやってきた友人知人には、全然大したレストランではないが食事でもてなすし、気持ちばかりのお土産もお持ち帰り頂く。
フランス人との人付き合いの中でも、外国人の立場においてお世話になったと感じた時にはフランス人のように「メルシー!」だけでは済まされない自分がいて、また同じような事をチマチマとやっている。
話は少しぞれるが私はピアノ演奏家で、基本的収入源は生徒のレッスンである。たまには、好きとは言いがたい歌の伴奏をしてみたり。
仕方なく通ってくる感丸出しの生徒さんにも軽くオヤツと飲み物を出し、大人の生徒さんの場合はレッスンが食事時にかかるような時には、レッスンの後に粗食ですが一緒に如何ですか?と食べてもらうようにしている。(皆が大好きな和食である事が多いせいか、要りませんと食べずに帰ったフランス人は今のところ無し)
それなのに、私がわざわざ出稽古をした場合の扱われ方が雑すぎて、なんとなくハートに空っ風が吹き付ける。
出稽古レッスンの時に毎回コーヒーを出してくれるようなお宅は、現在は華麗なブルジョア家庭1軒だけであるが、ある中国系フランス人の生徒さんの家で「今日は暑いですねー」と親に挨拶をしたら、ピアノの上に青島ビールの大瓶だけをドーンと置かれて度肝を抜かれた事があった。大変ご親切ではあるが、瓶ビールをラッパ飲みしながら子供のレッスンをする先生なんかおりますかいな。
パリ16区に住む富裕層の大人の生徒さんは、レッスンが終わると「それでは先生、サロンに移動して頂いてお飲み物を」と言って恭しくサロンに誘導して高級そうなクリスタルのグラスを並べてくれるのだが、毎回出してくれるものはピッチャーに入った生ぬるーい水道水だけ。
なにが「お飲み物」だ! この水道水だけのオモテナシが既に5年も同じように続いている。
このような諸々の話を旧友にすると、それは私が普段からただ単に何かとやり過ぎているだけの事で、フランス人に日本的な気配りなど微塵でも期待するのが間違っている、さっさとフランス的に振る舞うべし…!と言う。
私もフランスは長い人間、そのへんの理屈はごもっともであると納得するのだが、それにしてもこういうのは細胞レベルで持って生まれた性分なのか、はたまた自分が受けてきた教育や躾のせいなのか…?
私が育った家庭は裕福などではなくむしろ逆であるが、人様にやるべき事は多少の無理をしてでもやるべきである…という考えだった。
そのような親達からにでさえも「この○○家で、特におまえさんは筋金入りの根性良し」とか「人がいいのもバカのうち」などと言われ続けて育ってきたのが私である。
私の故郷では「根性良し」というのは決して誉め言葉ではなく、お人好し人間を小馬鹿にする決まり文句である。
なので自慢にもならないのだけど、これはもう自分の小さな勲章だと思って開き直っておくことにしているこの頃である。