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パリ ゲイ術体験記 vol.36「ある偉大なミュージシャンの話」

20数年前になるが、知人のマリンバ奏者のCD録音に携わる機会があった。
マリンバ&サクソフォン、マリンバ&アコーディオン..といった色々な組み合わせの二重奏もので、たった1曲だったが私がピアノを受け持った。
マリンバは木琴の脚付き親玉みたいな打楽器で、私くらいの世代の者は小学校で木琴を買わされて授業で叩いて鳴らしていたこともあって、マリンバの名前は日本では割りと知られている。
けれど、ここフランスでは無名な楽器らしくて「マリンバと合わせたよ」と言えば「マリファナを吸ったのか?」なんて反応されたことも。

ピアノ•ソロ以外では連弾やピアノ•トリオのコンサートも行っていたので多少のアンサンブル経験はあったけれど、打楽器とは初体験。
だけども問題はそこではなくて、ジャンルがクラシックではなくワールド•ミュージックである事だった。経験値ゼロどころか、音楽知識としても「ワールド•ミュージック」の「ワ」すら知らない暗さ。
録音のアンサンブル共演に招かれた各楽器のミュージシャンは名が知られたそうそうたるメンバーばかりで、その方々から見たら音楽院を終えて間もない新前の私などは、まさに何処ぞの馬の骨以上の馬の骨である。
そのCD制作の音楽ディレクターがレイ•レマ(Ray•LEMA)さんというアフリカ出身の大ミュージシャンで、当時はワールド•ミュージックの神様と呼ばれていたお方らしいのだが、そんなことも知らない。

数日をかけてのスタジオ•レコーディングが始まったが、私が担当するたった1曲のために3日も何故かさいてある。その理由はなんと、短いと思っていた曲の途中に時間制限無しの二重奏アンプロビゼーション(要するに即興演奏)が入っていたのだ!
子供の頃から一人遊びで即興で曲を作ることはよくやっていたが、その出来映えは必ず都はるみの親戚みたいな曲に仕上がる私の作曲クオリティだから、とてもじゃないが天才と言われているディレクター氏の耳にお届けする度胸はない。
無理な役目であると必死で訴えるが「洒落た出来映えなどを故意に考えずに自由に弾いていればいいからさ。マリンバも自由についていって其なりの音楽にするから大丈夫」…とレイ•レマ氏もマリンバさんも口を揃えて、ほとんど無理矢理の録音がスタートしてしまった。

案の定、アンプロビゼーションの途中で私から湧き出るもの(…と言うより絞り出すもの)が枯渇してしまいどうしても中断してしまう。
私が視覚で左右されて焦っていると捉えたマリンバさんは、なんと小さな窓越しに顔しか見えない隣どうしの2つのスタジオでの同時録音にすると言い出した。
「ヘッドフォンを通しても君の思い付きややろうとする事はちゃんと感じるから問題ないさ」と私は引き離されてしまった。私はほとんど泣きそうであった。

調子がますます悪くなって絶望的に固まっている私のもとに、録音操作室からレイ•レマ氏がやってきた。
「のりタマ君、僕に単音でも和音でもいいから君の好きな音を5つ与えてくれる?」と優しく言ってピアノの前に座った。
私が遠慮がちに鳴らした5つの音を主題にして、彼は小1時間ノンストップで即興演奏をやったのだ。
いかにも陳腐な音の組み合わせだったのに、彼の指先から紡ぎ出される音楽で私は骨抜き状態となって、溢れでる泉のような涙が止まらなくなり、それと同時にレイ•レマという真のアーティストの凄さを正に目の当たりにして私の身体の芯は震えまくっていた。
ゾーンに入ってしまったらしき私は、過去からずっと自身の何処かに巣籠もっていたような魑魅魍魎とした何かが動きだして天に上がる感覚を持った。
音楽にこんなにもダイレクトにデリケートかつ暴力的に魂を揺さぶれたのは、生まれてから今だかつてこの時一回だけである。

静かに即興を終えた彼が言った。
「のりタマ君、いつか僕の生まれ故郷のコンゴ(アフリカの国)の村に一緒ににおいでよ。村で年に一度盛大な祭りがあって、そこで3日間寝ずの断食で中断無しで楽器を弾き続けたり踊り続けるのさ。
ピアノは無いから、君は僕が弾く楽器に合わせて歌ったりリズムを刻んだり踊っていればいいさ。
じきにトランス状態になるから、そうなったらもうしめたもの。君の音楽の魂は束縛や不安から解き放たれて、以降はコンサートの本番での恐怖なんかは全く感じなくなるのは間違いない。
のりタマ君に今一番必要なのは、有名なピアニストのレッスンを受ける事ではないと思う。トランスの境地の時に天から舞い降りてくる力を借りてハートの開放ができたら、それが今後の君の音楽にとって最強のものとなるはず..
それから今回のレコーディングに参加しているミュージシャン全員の中で、君の音楽の魂が最もシンプルで繊細な形をしていると僕のハートが知らせてくれた事も言っておくよ」
…やや慰めてもらった感のある最後のフレーズだったけれど、アフリカの故郷にまで誘ってくれるのだから何かしらの希望は持っていいものか..と、とりあえずは喜んでおいたのだが。

時に流されて結局はコンゴの村祭りに行くことはなかったけれど、今もパリで活躍しているレイ•レマさんに出会ったならば「今からでも遅くない?」と尋ねて遠いアフリカにご一緒させてもらいたいと密かに願うのである。


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