余は如何にしてアホとなりしか (1)
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名古屋工業大学(←国立大学) 、岐阜薬大とか 政府とか 文部省とか官僚とか テレビ局とか芸能界の人達を、場合によっては余は 厳しく、批判しますけども 全部が全部 各々において 悪い人ばっかりではありません。各々において、勿論、いい人もいられるのでございます。そこのところは前もって申し上げたいと思います。同様に、この事は他の何処のところでも言えます。🍵 🍝🍲 ☕ 🍤🍣
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余が23歳の時(昭和46年:1971年)だったと思う、(現役から 2年遅れて 昭和44年に名古屋工業大学に入学した。)当時は名古屋工業大学の工業化学科の学生だったが、学内、学外では後ろ指刺されて、余は 世間から理由なく憎まれていたし、国鉄東海道線の通学の電車の中でも車掌が必ず客の余を目当てにいつも、マークして必ずやって来た。(←これも、当時の政府、運輸省の犯罪) 女性問題を取り分けマークしていたと思う。これは勿論、当時の政府の犯罪であると思う。 🍤🍣 🍝🍲 🍆🍒
よく昔から今に至るまで、通勤や通学などで電車の中で顔馴染みになる若い娘さんがいたら必ず、それなりの筋の人から知れ渡って一発屋のやる男君達が何人も出現して、そいつらが話しかけて妬みを満足すべくその女の子を痴漢をしたり、口説いたり、強姦なんかしているわけである。このことで、訴えられて処罰された一発屋のやる男君はほとんどいないと思う。つまり、 やったもん勝ちである 。それは余が若い頃は国鉄( 現: JR)の車掌がマークしていて、それなりの筋に「あいつ(余のこと)に電車で顔なじみになって出会う娘がいます !」と車掌が通報しているということも原因だったと思う。 🍀 🥣🍝🍛 🥣🍱 🍤🍣 🍆🍒🍇
そういう事は当時の余が国鉄(現在の JR)の東海道線で通学していたが、こういった車掌から余がマ-クされている微々たる事が余の出身校の当時の通学先の名古屋工業大学にも知れ渡っていて、余のことを性犯罪者のようにも憎んで、怒って悪口言っていた連中が学内に沢山いたと思うのである。猟奇的 2 枚舌っていう言葉が がきデカ という漫画でよく出ていたけども、この漫画では『 あいつは猟奇的 2 枚舌を使って嘘をつくヤツ』と 余を評価しているが、実際は余の差別サイドの岐阜薬大助手の浅尾哲次とか篠崎信夫元中学校長とか愛知県警悪人派警察官達 等、これらの自分達こそが猟奇的二枚舌を使って、余の名誉を著しく傷つけて、社会はぶち壊すし、余の名誉と生活権もめちゃくちゃに侵害されてしまっていたわけである。余の出身高校の岐阜北高校とか岐阜薬大とか名古屋工業大学にはかなりの余に関する猟奇的 2 枚舌を使って悪口を言う悪質な人間が沢山(いた)いるのである 。 🍝🍲
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そのくせ、名古屋工業大学は冊人鬼でもあり、且つ、性犯罪常習者である岐阜薬大の浅尾哲次を学内に入れて、歓迎をしてお友達になってその影響を受けて性犯罪をよくしていた名古屋工業大学の人達が沢山いたと思うのである。今でも名古屋工業大学はそのカラーは十二分にある。その事でもって国から褒められて『いい大学ですね ぇ!』と文部省(いえ、こういう場合は悶部省というべき ! )からお褒めの言葉をいただいておると思われるのである。浅尾哲次は岐阜薬大の写真部に入っていたので、またこの大学は薬の大学なので簡単に睡眠薬が手に入るので、その睡眠薬で複数の同大学内等の共犯者の 一発屋のやる男君とも言うべき 男達と狙った女の子を眠らせて、その女の子の下着を脱がせて局部をさらけ出して写真を撮って、その卑猥な写真を浅尾自身が岐阜薬大の写真部で現像して、諸方に、ばらまいていたと思われるが名古屋工業大学でも同じことで、つまり当時の名古屋工業大学の教職員達や学生達や院生達は岐阜薬大と同じく、浅尾哲次からそういう写真をもらっていた事をしていたと余は思っている。 🍵 🍤🍣🍀 🍇
勿論のこと、余の出身の岐阜北高校と 岐阜薬大と名古屋工業大学に各々 警察が複数、私服で毎日、入り込んで 浅尾哲次や篠崎信夫と同じように 余の事を高校や大学の人々に余のプライバシーを言いまくり、且つ、余の事を悪し様に言いまくっていたと 思われる 。警察が余の在籍していたこれらの学校に入り込んで余の名誉を著しく傷つけていたということの証言はまだ頂いていないが、間違いないはずである。 この高校と 二つの大学に入り込んで余の名誉を傷つけたりプライバシーを言いまくっていた とんでもない警察官達は相手は生徒達、学生達とか院生達とかがメインですので、若い警察官で その高校や大学の出身の警察官が 選ばれとる可能性が高いと余は推測している 。その方が警察が悪意を込めて余の名誉を傷つけるとかプライバシーを言いまくることについては 、効果が上がるわけである。 🍵 ☕
例えば名古屋工業大学では 仮に5人ぐらい毎日その大学に余の学生時代に 愛知県警の警察官が 私服で入り込んで「 何年生の工業化学科の草井は馬鹿野郎だ ! 」と言いまくるについては、また余のプライバシーを公表して余のことを苦しめることについては、その5人の警察官は二人か三人が同大学卒業生で、そして岐阜北高校では二人、岐阜薬科大学が一人 、各校の卒業生の警察官が 余の悪口を言いまくっていたと、たとえばの話ですが、推測しているのである 。 🥣🍝 🌷🌹🧄 🍮 🥝 🍀 🍵 .🍜 🍀 ☕ 🍝🍲 🍆🍒
( 浅尾は学生時代 写真部に入っていて暗室での 現像の仕事、腕はプロ並みの技術を持っていたということです 。また、 この男は山岳同好会にも入っていたのだが、その動機は浅尾哲次は 、登山に人を誘って、山で人を遭難死を装って、頃すためだった!と浅尾哲次については評価ができると思う 。余に対して余が岐阜薬大の学生の時につまり 昭和43年春 に、この事、 つまり 登山に余を誘って 余を高いところから突き落として 遭難死を 装って頃すと いうことを既に未遂であるが、余に対してしていた。 🍇 🍀 🍮 🌷🌹🧄 ☕🍝🍲 .🍜 🍵 🥝
つまり 山岳部の先輩の熊沢と浅尾哲次が組んで余を登山 に誘って山で 墜落させて頃そうとした。 岐阜薬大の山岳部顧問の当時の助教授(←岐阜北高校卒、氏名思い出せない ! )も浅尾達のこの計画はおそらく事前に知っていたのであり、 共犯関係が成立すると見ている。他にもこの計画を知ってて、浅尾と同調していた教職員や学生、院生など共犯者達が 沢山いたと思われる。前述の警察官達が岐阜薬大にも入り込んで 余のことをマークし、また余の名誉を傷つけるなり、余に関する悪い話を喋りまくっていたと思われるが、勿論のこと、複数の岐阜薬大に入り込んでいたこれらの警察官達と浅尾とはこの冊人事件に共犯関係があったと、ほぼ確実に思われる。 今、 余は生きているので 、冊人未遂 事件である。 三田洞弘法岩事件 )🍮🍵. 🍜 🍝🍲 🍇🥣🍝🍛 🥝 ☕ 🍤🍣 🍆🍒
浅尾哲次が 写真部に入っていたその動機というのは、 睡眠薬を飲ませて眠り込んでいる女性の 下半身を露出してその写真を撮り それを現像して ばらまくということを趣味のようにしていた と思われるのですが、そのために写真部 にこの男は入っていたのだと思われます 。この男は余にも その写真を見せて「お前にやる。この写真は岐阜薬大の女子学生の写真だぞ!」 と 言ったことがありまして とんでもない男です。 その 写真は顔つきの写真ではなくて そのものずばりのアップ写真でした 。浅尾哲次のことだから 顔つきの写真も撮っているのに決まっています 。 🍲🌷🌹 🍉🥒🥝
それでもう嫌気がさして 、岐阜薬大とはもう付き合わないことにし、接点を持たないように 完全に 縁を切るように しました。 .🍜 🍵 ☕
浅尾哲次が そういう事をすればその卑猥な写真を浅尾からもらった人達から浅尾は 感謝されて、浅尾を褒める理由となり、何かと暇をつくっては浅尾哲次は追っかけて名古屋工業大学内に入り込んでは余の悪口を言いまくり、言いふらしとったので、そういう写真をもらった名古屋工業大学の連中は喜んで感謝し、余の悪口を憎しみをこめて『アイツはバカだ ! 」と言っとったのだと思う。 余が名古屋工業大学での 学生時代、相当、学内で憎まれていたのはそのことに原因があったと今にして思うわけである 。 また、浅尾哲次は手をつけた岐阜薬大の女子大生などの女達をあちこちに『一発どうやね!」と誘ってばらまいて紹介していた。 浅尾哲次は大変な世話好きの 男であった。 卑猥な そのものずばりの 写真を ばらまくし、 女も紹介するし、こういうことでありますから 感謝されて、逆に、余が名古屋工業大学学校内で 侮られる立場に陥った理由であると思う 。浅尾哲次や篠崎信夫校長も名古屋工業大学に入り込んではその都度、余の悪口として、あいつは岐阜薬大と 名古屋工業大学を 両方とも不正入学 で入った と言いまくっていた と思われます。 浅尾や篠崎と 共犯関係の 同大学に私服で入り込んでいた愛知県警の 警察官達も 同じことをしていたと 思われます。 🍲🌷🌹 🍵 🥝 🥣🍝🍛 🍝🍲 🍆🍒 🍀 🍇 🍤🍣
こういった次第で余は社会的承認がないので、『どういうことかなぁ ? 何故かなぁ?』と差別される理由が分からず、不思議に思い、あるいは宗教にその答えが見つかるのではないか?神様は世間の人達の認識とは違う見方や別の認識を持っていらっしゃる?という気がしてキリスト教団体の幕屋に接点を設けたのである 。 🍉🥒 🍵 🍝🍲 .🍜 ☕
幕屋というのは別称は原始福音と言って手島郁郎という人が創始者でキリスト教プロテスタント系列で内村鑑三という人が作った無教会というグループがありますが、これの分派だと言われていた。終戦直後に手島郁郎という創始者が熊本から開拓伝道して全国に展開して大きく幕屋グループを発展させたのであります。昭和45年(1970年)の頃は全国で2万人ぐらいの信者がいたのではなかったかな?と確か、そのように覚えております。この手島郁郎なる人物はよく神癒(しんゆ)と言いまして信仰で病気を癒すということを、つまり奇跡を重んじるようなイメージのある人でした。余も一つには、そういうところに惹かれてこの幕屋に入信したようなことが言えるかと思います。当時、余もご多分に漏れず科学万能ということを認識していましたので、 これ一種の洗脳ではないかなと余は思うが 、聖書に書いてある諸々の奇跡は信じられないと何かの間違いじゃないかな ? と思っていましたが、後でこういうことは可能である、あり得るということが分りました。科学では説明できない不思議なことは現実に宗教の世界では起こり得る、あり得るわけです。
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また、この幕屋ではよく愛餐会(あいさんかい)を開き、ビールを飲ませてくれるし、また食事もたらふく頂だけることであった。若い青年だった、余にとってはこれがまた大変なありがたい魅力でして、不純かもしれないけど、これがこの教団への大きな入信の動機でもあったんじゃないのかな ? とは思います。この場合、伝道者の奥様をはじめ婦人部の人達や台所を手伝う女子青年達が何人もいて、そういう台所仕事を手伝い、調理と給仕のお仕事をして私たちの愛餐会を盛り立てて下さっていたのである。大体、キリスト教の宗教団体ではその教団内では酒を飲むことは大抵のところはしていないはずで、それをこの幕屋では時々、愛餐会を開いていて、ビールと食事を頂いたのである。こういうことは手島先生のお計らい、ご指導によるのです。 🍵🥝 🍆🍒 🍇 ☕🥣🍱 🍤🍣
勿論、宗教団体ですので、キリスト教団体ですので人に絡んだり異性の方にセクハラをするとか卑猥な言葉をかけるとか品の悪い飲み方をする人はその頃はいませんでした。上品に、皆さん節度を持って、ビールを飲みながら飲食をされていました。私達、若い青年も年配者の人達も酒を飲みながらいろんな時事問題を議論したり、キリスト教の伝道のこと等で議論したり、話したりして飲み食いしました。そういう高尚なレベルの高い話を酒のつまみにしていたのです。余は若い時に、この幕屋で酒の飲み方を教わったということで、その点では、まぁ感謝していることであります。 🍉🥒 .🍜
この幕屋では 洗礼も、また聖餐式もやりません。一般のキリスト教教会では机、椅子に腰掛けて礼拝しますけども、ここでは純日本式で畳の上で座って通常、伝道者の聖書講義と司会者から名指しされた信者さん達の感話を聞き、賛美歌を歌い、そしてみんなでお祈りをします。この教団の長所はよく祈るところだったと思います。この教団では聖書講義をする先生のことを牧師または神父という名称でなく、伝道者と呼んでいました。手島郁郎氏を始め幕屋で布教し、聖書講義する伝道者の人達のことを普通、勿論の事、先生とも敬称で呼んでいました。また、手島先生をはじめ、全国各地の幕屋の伝道者のカバン持ちをする青年をよく弟子という言葉を使いましたが、カトリックにしろプロテスタントにしろ布教する先生のカバン持ちをする若い青年のことを弟子という呼称を使うキリスト教団体はそうないと思います。幕屋ではそういうことで伝道者のカバン持ちをする青年のことを弟子と呼んでました。 🍲🌷🌹 🍵 ☕ 🍤🍣 🍉🥒 .🍜🍆🍒 🍝🍲🍀
また、ここの教団ではよく霊習会と言って徹底的に祈り尽くす集会も開くことが時々ありました。またここの伝道者はキリスト教の牧師養成学校の卒業を一人もしていないのです。或いは、一人ぐらいはおったかもしれませんけども、キリスト教の牧師養成学校を正規に卒業しなくても、一応無教会系列ですから、幕屋の教団の伝道者になれるのです。 手島郁郎先生が承認したら幕屋の伝道者としてデビュー出来るわけです。若い人達、青年はそういうキリスト教の信仰に熱心で中には伝道者になりたいと思っていた人達もいたと思います。若い連中はイスラエルとかギリシャに留学してヘブライ語とギリシャ語を学びに行くという熱心な教団でした。旧約聖書はヘブライ語が原典ですし、新約聖書原典はギリシャ語で書いてありますので幕屋ではよく希望者を集め伝道者の先生などがギリシャ語やヘブライ語を教えてくれたことがありました。余は語学が苦手で、あんまり意欲がなかったので、参加していましたがなかなか身につきませんでした。 🍉🥒 🥝 .🍜 🍵
当時の若い青年が2人ペアになって開拓無銭徒歩で伝道したということでみんなの前でその体験談と報告を話しをしたのですがその人達が言うには、夜二人で歩いて行く時、地面の道になんか霊的な色のついた線が見えると、つまり歩く方向が道に示されていたという話をしたの覚えていますがあれは嘘だと思います。作り話を平気でするんですが、あんなことはまず実際にあり得ないと思います。幕屋はよくその頃自分達の事を霊的、霊的とよく自負して自慢めいて言っていたのですが、こういったところが幕屋の大欠点だと思うわけです。 .🍜 🍲🌷🌹 ☕ 🍉🥒 🍵 🥝🍀
また日曜日の集会で若い連中が私よりは先輩なので祈った後で集会後みんなの前に出て、「黙示で示されました。かくかくのこんなことでございますよ。」と発表したのがいましたが、あれも、でたらめで嘘だと、自分の作り話だと今は、思っております。もう、こういう勝手な自分の思いを神様からの啓示を受けたって言うことで公言して発表するバカがおりましたので、余みたいなアホな騙されやすいタイプはその通りだと思っちゃうのです。信仰の先輩だからということでその通りだろうと思っちゃうわけですが嘘!嘘!嘘!。沢山いますよ。クリスチャンなんて人間のクズが多いのです。嫉妬深いし、礼儀知らずだし、私はこの時の若い時から以降、つまり、この後のこの幕屋の教団は後から入って来て撹乱し、余と静岡にいられた女性との仲を妨害にしに来た浅尾哲次一味等の運動によってこぞって裏切ることになりますが、その余を裏切った幕屋を余が離れた後、余は、他のキリスト教団体にも接触しましたが、偽キリスト信者、偽牧師、偽神父達、偽伝道者達に差別されて嫌な思いを数知れず受けて来ました。勿論、全部が全部そういう悪い人ばっかりだという事ではないです。いい信者さん達とか、いい牧師さん達とかいい神父様にも出会っています。どこでも どこの世界でも 、偽物と本物がおりまして、キリスト教の世界でも同じことが言えるのでございます。
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「神様から啓示を受けた!」と言ってみんなの前で公言して、嘘をつくのは恐ろしいことだと思います。偽預言者の道に進むことになると思います。
最初は門脇という伝道者が幕屋の名古屋支部で伝道者としていられた。初めて余が幕屋に出入りし出したのは大学の2年生のとき(1970年、昭和45年:夏)だったと思います。まず余は夏休みを利用して東京に行ったわけです。社会的承認がないので、また、否定されていますので、(余は勿論、当時は、警察をはじめとする国家権力から迫害されているという事は原因として認識していなかった。)原因がなぜか ? 分からず、そこの悩みを宗教家に相談したいと、神に仕える宗教家はどう言うだろうか ? ということでありました。東京に行って本部の手島先生に会いに行ったのだが、手島先生の右腕のような人である部下の人が手島先生が多忙であるらしく、頼んでも夏期聖会が 間近に迫っていたので 、夏期聖会に出席して、手島先生に会えずじまいで帰り、名古屋の幕屋に出席する事になったわけです。 🍉🥒 🍵 🍇 .🍜
東京の幕屋の本部にいた人が私を連れだって、東京幕屋の青年達の合宿所みたいな所に連れて行き紹介してくれて、泊めてくれるように頼んで下さったのです。そして、東京に何日か泊まりました。しかしその 名古屋幕屋に行く前に東京幕屋の信者さん達に勧められて 夏期聖会というのがあり、東京から 出席することになった 。 🍲🌷🌹 🥝🍆🍒 🍵 🍝🍲 🍀
休日、東京にいるとき一人で外出して東京見物でも、しようとした時だか゛最寄りの小田急の代々木八幡駅から乗車したのである。電車が入構して電車に乗ったら、余の正面向かい側に若い男女が座っている。正面が大変綺麗な女性だった。男性の目は下を向いていた。若い女性は大変綺麗なので私は自然と視線を彼女に余の正面でもあるので注いでいた。確か、彼女にはえくぼがあったような気がする。余が彼女から視線を逸らし、また暫くしてから、何気なく正面の彼女の顔を見たら、寂しそうな表情をしていたが、そのうち元の表情の顔に戻った。確か、このことを余と彼女は2回繰り返したかと思う。余の視線を得ることが彼女にとって、嬉しかったみたいであった。そうこうするうち彼女の隣に座っていた若い男性が鹿の角のようなもの2つ持っていて、それを両手でカチカチ鳴らした。 🍵🍤🍣 ☕ 🥣🍝🍛 🍝🍲 🍀
目的の駅の新宿に着いて彼女達の後から余も駅に降りて歩くのだが、これまたどういうことか分からないのだが、この若い二人は余の前方で別れた事は覚えているが、とにかく彼女の姿が見失ってしまった。昔の事なので事の次第はどんなことであったのか詳しく覚えていないが、新宿駅の塩梅(あんばい)が分からず、大きくて見知らぬ所の駅ですから田舎者の余は彼女を見失ってしまったのだろうと思います。大変な美人でした。彼女のことは余韻が残って頭の中が占領されていて、その日は一日中ぼーっとしていました。あの女の子はおそらく幕屋の信者さんだろうと、雰囲気からして宗教的な雰囲気があるということでそう思う事であったのです。 🍲🌷🌹 🍉🥒
おそらくこの女性が後になって岐阜薬大の助手の浅尾哲次とか朝日新聞記者の高成田亨(とおる : 現在仙台大学教授になっているらしい )夫妻達共に妬まれて気の毒にも大変なる迫害を受けた女の子だろうと思う。当時、余は東京に滞在中 は東京幕屋の青年達の相部屋のアパートに住まわせて頂いていた。 🍉🥒 ☕ 🍆🍒🥣🍱 .🍜 🍵 🥝 🍤🍣
この日、東京見物をしてそのアパートに帰ると夜、余の目の前で若い青年達が二人で喋っている 。 余と親しくなっていた I 君に怒った顔して、同室の A さんが ワイシャツの新品を「誰々さんから預かってて渡してくれと言われたプレゼントですよ!」って言いつつ渡していた 。 🍵 🍝🍲
これはその時は勿論、分からなかったけども、随分、後になってから、I 君を私になぞらえて本当は余にプレゼントしたかったのであるが出来ないので、余の目の前でI 君に A さんがワイシャツをプレゼントを彼女は怒ってしたというコントを演じたと思う訳です。 .🍜 🍵 余が新宿駅で彼女にアプローチできなかったので彼女は機嫌が悪くて怒っていた。それで新宿の駅の辺りでワイシャツを買って体格も I 君に余が似ているので A さんにこと付けて本来なら私に直接お渡しするところやったのをそういうことで 満足したのだろうと思われるわけです。 🍲🌷🌹 🍵 ☕
この夏期聖会は2泊3日の全国の 幕屋の信者が集まる大集会で、大きな感銘を受けた。手島先生は長い髭を生やしていて、当時60代だったと思う。この夏期聖会が終わった後、周りから勧められて、東京でなく、直、名古屋に帰った。前述の門脇 という 伝道者が名古屋での先生としていらっしゃった。🍉🥒 🍆🍒 🍝🍲 🥝 ☕
門脇先生の頃に名古屋支部の青年信者から私にこの本読めって言われて勧められた本が内村鑑三の本で、これをお借りして読んだところが大きな感銘を受けた。この本を読んだ事でもって社会的承認のない余は 表面的な信者さん達との付き合いで慰めを求めているようではいかん !と内村鑑三のように、キリスト教の信仰でもって自分の品性を磨き天国に救われるに至るようになるよう努力することが大事だということにようやく気づいた。 ☕
札幌農学校の生徒だった内村鑑三達はキリスト教宣教師と繋がりを持っていてこの人達の教会に礼拝に行っていた時、教会で英語のレッスンなどがあったが、ある時に、そこのイギリスの婦人の信者さんからこういう英語のレッスンなどの社交的なことのみに重点を置いてはだめですとキリスト教の信仰に基づくご自分の品性を磨くことと自分が天国に救われるようになることに重点を置きなさいと勧められたということですが、彼は、また彼の周りの友人達のクリスチャン達は皆立派な信仰のおかげで高い品性を獲得なされた。内村鑑三先生は精神の巨人であると言われていて、偉人である。余は彼が好きだ! 彼を尊敬する。 🍲🌷🌹 ☕ 🍵 🥝🍀
余はその後、内村鑑三の本を買ってよく読むようにした。内村鑑三の本に「余はいかにして基督信徒となりし乎」という本がある。海外でもよく売れたらしい。( How I became a christian .) これを文字って「余はいかにしてアホとなりし乎」とタイトルをつけてSNS、ブログで余は 発信しているつもりなのであるのであります。.🍜 🍵 🍤🍣 🍝🍲 ☕
名古屋幕屋では、門脇師の次に吉村騏一郎(きいちろう)という伝道者が来られて、これも 2 年ぐらい名古屋にいらしゃった後、異動で、と申しますのは手島郁郎先生がなくなったので、(1973年、昭和48年12月25日:クリスマスの日)東京の幕屋に吉村騏一郎先生が転勤され、東京へ異動されましたので、その後に竹下仁平(ジンペイ)という人が名古屋幕屋に来られた。吉村騏一郎師が名古屋支部の伝道者をしている時まで余は名古屋工業大学の工業化学科の学生であった。吉村師が幕屋の名古屋支部に在任中の昭和48年3月に同大学を余は卒業した。余はこの竹下という先生とは相性があって、それより前の二人の先生とは相性が合わず、月とすっぽんやなぁ!ということが分かった。 🍲🌷🌹 🍉🥒 🍵 🍆🍒🥣🍱 🥝 🍤🍣
浅尾哲次は余が岐阜薬大を中退してから 名古屋工業大学に進学しなおしたら名古屋工業大学へ出かけて、余につきまとい、また社会に出たら社会出たで、余につきまとっていた。余の勤務先などにも浅尾哲次は顔を出して余の上司だとか職場の人と余がいないところで、何か余のことで議論していたり、または何か色々な悪事を唆(そそのか)していたと思われる。.🍜 🍵
幕屋、(別称;原始福音)は今、現在はキリスト教教団としてはあるけども浅尾哲次とそのグルになって余の女性問題で妬んで大変な性犯罪を犯して迫害をした教団である。その際にはこの教団は岐阜薬大の浅尾哲次の影響を受けてメチャメチャになっていました。この教団で、浅尾の指導で余も頃されそうになった事もありましたし、おそらく余の相手の彼女も浅尾一味の共犯者のヤクザが出没して頃されることもあり得たのではないのかな ? と推測しています。幕屋は岐阜薬大の浅尾とグルになって、こういう事を昭和49年~51年(1974年〜1976年)にやった連中ですので偽物であり、こんなところに、キリスト教の真髄なんてある理由は全くないのです。今は幕屋はなんか統一教会の方向に染まっているらしく、こんな教団にアプローチしてキリスト教の信仰を極めたいと考えることはお勧めできません。 それこそ真性の アホばっかりの教団ですから 相手にしない方がいいのです。🍀 .🍜 🍵
国家、政府及び、岐阜薬大の浅尾達によって余の女性問題で幕屋に余と恋仲のような大変な美人の女性が居るということが知れ渡って、迫害が及んで来たとき、相当余に対してその魔手が浸透した頃にまたその時点では竹下仁平先生が余を裏切っていなかった時だが、かなり幕屋の雰囲気が真っ暗となり、幕屋のかなりの信者達が裏切って余の敵対者になってしまい、また同時に彼女との敵対者になってしまい教団内で浅尾のシンパが増えてしまって変なキリスト教の教団になっていたが、まだ竹下仁平先生達が私どもの味方になっていました時でしたが、イスラエル人がわざわざ名古屋幕屋まで訪ねて来て様子を見に来てくれたことがあった。この人はイスラエル人であって、つまりユダヤ人であっても褐色の肌でアジア、アラブ系の感じの人だったが、私に対しても別に変な感情は持っていなくて集会の後、青年部みんなでそのユダヤ人の男性を囲んでみんなでお茶会を開いて、余も参加したが普通に私も参加させていただいた。 🍉🥒 🍵 🥝 🍇 🍲🌷🌹
その後だんだんと幕屋は浅尾哲次とかおそらく愛知県警の警察悪人派も動いていて、その悪魔の攻勢が 効いて幕屋はおかしく、且つ、暗くなり岐阜薬大の助手、浅尾哲次の影響を受けて悪霊が集会を開くと部屋中に充満する状況になっていた時だった。 🥣🍱 🥣🍝🍛
この時はもう竹下先生は裏切っていたか、そうでないとしても裏切る前だったと思われますが、この時にやはり同じくイスラエルからユダヤ人の白人系の人が訪ねて来て名古屋幕屋にも来られて、私どもの集会を見に来ていたわけですが、この人は確か、スロムニッキー博士とかいい、農学博士で日本の農業について研修、見学に来られたと聞いていましたが、幕屋がどうなったのか興味を持って名古屋幕屋まで来られたと聞いていたのであります。名古屋幕屋から同博士にお土産として日本の行燈をプレゼントしたことを覚えています。集会中みんなでお祈りするんですか、その同博士は前の方にいらっしゃったが何気なく、みんなが集会で、お祈りをしている時、私が目を開くと同博士は私をじっと見ていたのでして、視線が合いましたが、余のことを知っていられると感じました。その集会の後は 余を含め、みんな帰ったのであり、ごく一部の代表者の人達だけで同博士と茶話会を開いたと思われますが集会の直後、余がスロムニッキ-博士のそばを通ると博士は何か小さな声で笑うような具合だったように覚えております。なんかインテリの方ですのでインテリ固有の愛想の悪いタイプの方ではないのかな?と思いました。 🍉🥒 🍤🍣 .🍜 🍵 🍀 ☕🥣🍝🍛🥝 🍝🍲
ともかく幕屋っていうのは手島先生の方針で昔からイスラエルによく聖地巡礼で毎年巡礼団を送ることをやっていましたし、なにかとイスラエルと親睦を図ることをしていました。手島郁郎師は生前には幕屋からイスラエルに国産の救急車を贈与もしているということです。また1967年イスラエルのウジナルキス将軍がエルサレムを奪還したということで、同将軍を東京に真っ先に招いて歓迎と祝賀の集会を開いたそうです。 その頃は幕屋には 余は 参加していなかったのですが 、私は幕屋が発行する機関紙でそのことが書いてあったので知っておるわけです。また幕屋の青年達も旧約聖書はヘブライ語で書かれていますから留学してヘブライ語を勉強しに行っている人が沢山いたわけです。これも手島郁郎師のお計らいによることです。 🥝 ☕
前述の代々木八幡駅で余が21歳の時、彼女もおそらく二十歳か21歳だっただろうと思いますが、小田急線の電車の中で出会った大変な美人の女性はおそらくこの人は幕屋の信者さんで既に、イスラエルに行っておられたと思います。 そして日本に帰国後は名古屋幕屋にお手伝いさんとして住み込んで働いていて、 余が東京幕屋に 現れて、やって来たということで彼女は東京に転勤して来たと そういうすれ違い状況だったと思います。そして小田急小田原線の 電車の中で彼女に出会ったということだと思います。 🍲🌷🌹 .🍜 🍀 ☕ 🥣🍱 🍤🍣 🍝🍲 🥝 🍇
尚、小田急の代々木八幡の駅で 美人の彼女と私が 電車で出会ったことについては おそらく その一つ前の駅で おそらく手島郁郎先生が 霊感で先が読めて、 この二人の男女を 指図して電車内での場所を指示して、座らせて 余と出会えるようにし向けたと思われます。 🍉🥒 🍵 🥝🍤🍣
浅尾哲次はその頃は岐阜薬大の助手(現在は助教という)をやっていたが、余と彼女のことが知れ渡るとおそらく、国からスケコマシのシェンシェイの浅尾哲次に「出番だっせ ! 」とお声がかかって、その頃は彼女は東京から既に静岡の幕屋にいらっしゃって、そこで働いていたのだが岐阜薬科大学に籍を置きながらおそらく静岡市内にマンションの二つか三つぐらいの部屋がある物件を借りて住み込んで、アジトを作って同じ仲間の連中、上記の朝日新聞の当時の静岡支局の 高成田亨夫妻達とか名古屋大学医学部産婦人科教室の独身研究、教育者等と陰謀の会議を開いては彼女をセクハラ攻撃していたと思われるわけである。 🍵 🍤🍣 🍇 ☕
それでありながら職場の岐阜薬大から遠く離れた静岡市内のこのアジトにほとんど入り浸りでいるくせして、大学での給料をもらいながら彼女に対するセクハラの仕事や余に対する迫害をしていたという事であります。当時の岐阜薬大の学長は助手の浅尾哲次が何をやっていたかについてはもちろん承知の上であり、從って、共犯である。上司として無鉄砲極まりない部下の浅尾哲次の行為をド叱りつけて懲戒免職させるのが当然である。静岡市内で彼女をセクハラ攻撃するために作ったこのアジトは恐らく間違いなく国の税金が投入されていて、その運営がなされていたのだろうと思う。国家プロジェクトなのである。 🍝🍲 🍀 🍤🍣🥣🍱
国は性犯罪や冊人{余は幕屋で浅尾哲次の指導で幕屋の連中が1976年( 昭和51年 )の夏季聖会で余を頃そうとする計画があったのだろうということを覚えておる。}をやるのである。昭和49年50年51年(1974年~1976年)頃の幕屋での女性問題で浅尾哲次を使って、迫害をしたことには当時の政府に深い共犯関係があったと強く余は疑っている。 🍵🥣🍝🍛 🍇 ☕
従って、一部の静岡県警警察官達も このことに関与していたと思う し 、余は 佐藤栄作が余の差別に 関与していたのではないのかなぁ?と 疑っている。 🍲🌷🌹 🍆🍒 🍵🍀 🥝 🍤🍣
1976年の夏季 聖会における 余の殺人未遂事件であるけども この時は 確か全国の幕屋の 青年達は男子部と 女子部 で別れて別々に 聖会を開いた。 男子は 長野県 白馬、 女子は長崎県の雲仙で開く ことであったかと 確か、 思う 。余は当時の 勤務先の名古屋市中区に本社がある 飯田産業(株)に休暇を願い 出て そのことに 参加するつもりで申し込んであった。行けば必ず 浅尾達に崖から突き落とされる等して、頃されることは 分かっていても申し込んだ。 また 当時の余の勤務先の飯田産業(株)社長以下社員達 と 浅尾哲次 と愛知県警の当時の共犯者達 も余がその 夏季聖会に行けば 余が必ず殺されることは知っていたはずだ。 🍲🌷🌹 🍉🥒 🍝🍲 .🍜
名古屋大学の 医学部 産婦人科教室の 若手の独身研究者 (助教授とか講師)が静岡 幕屋に出入りして 静岡のアジトに 常駐して、これまた浅尾と同じで 名古屋大学の籍があるから名古屋大学から給料をもらい乍ら、 静岡にいつもいたのである。 🍤🍣 🥝 ☕
( おそらくこのアジトに出入りする者たちは 所属する新聞社等の会社 や 大学などの給料とは別に、仕事をしたと評価されて手当もおそらく 国から、もらっていたと思われる。つまり、ダブル、2重の収入をもらっていたのだろう。) 🍲🌷🌹 🥣🍱 🍆🍒 🍀 .🍜 🍵 🥝🍝🍲
そして浅尾哲次や高成田亨(とおる)夫妻とお友達になって 彼女をセクハラ攻撃をしていたと思われるが、 当時の名古屋大学医学部産婦人科教室の 教授から 院生、学生に至るまで 、100パ-セントそうではないにしても、かなりの人が共犯者であったことが考えられ 、浅尾から 睡眠薬を使って破廉恥な そのものズバリの 岐阜薬大写真部で現像したその時の場合の写真ももらっていた人が沢山いただろうし、 当然 、余が幕屋の夏季聖会で 頃される運命にあるということは知っていたと思われるし、 あれだけ 私達の事がテレビ、ラジオなどのマスコミでも騒がれていたのであるから、 当時の名古屋大学学長 もこのことを知っていたはずであり、この当時の名古屋大学学長も 浅尾から素人さんの娘さん達の睡眠薬を使っての卑猥な写真を入手していたと考えられるし、もしそうでなくても、名古屋大学医学部産婦人科教室の若手研究者が浅尾哲次君達と首尾よく静岡幕屋の女の子が陥落するようにと願っていた等と考えられるし、その場合はこういった連中は皆、共犯者である可能性がある。 🍉🥒 🍤🍣 🥝 ☕
だから余は いつも言うことですが、 今時の学歴は 信用できません。 学歴神話は崩壊していますと 強く申し上げることができるのです。 .🍜
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この時 聖会に 余が 行っておれば 浅尾哲次と件(くだん)の名古屋大学医学部の静岡幕屋に出入りしていた若手独身教育、研究職員も参加していて、この聖会に来ていて 浅尾の指導のもとで浅尾が号令をかけるや幕屋の主だった伝道者達もに それに合わせて葉っぱをかける号令を上げ、それと同時に幕屋の伝道者達 及び青年達が 余に襲い かかって 白馬の山のところで崖から突き落とす等して頃すことを しようとしていたのであろうか ? と思われる。🍝🍲 🍵 🍆🍒 🍇 🥣🍱
しかし、勤務先の飯田産業(株)の工場の倉庫(愛知県豊山町)が 火事になったので この聖会の参加は申し込んでいたけど 余はとりやめることになった。
昭和49年頃(1974年)から、がきデカ(こまわり君)の漫画が流行し出して余は閉口した。これは下品な漫画で、その頃、余が勤めていた飯田産業(株) (本社:名古屋市中区、 飯田芳宏社長)という会社で同僚が、がきデカの漫画を読んでこの作品を書いた作家のことを「こいつの頭の中どうなってるんだろうなぁ-?」と言っていました。頭がおかしい山上たつひこという男の作品で少年チャンピオン、秋田書店の漫画です。当時のこの編集部の連中は全部有罪だと評価できると思います。この漫画には当時の政治家達や官僚達も関係があって、この作品が世に出ていたのだと思います。篠崎信夫という余の中学校時代の校長もこの漫画の事業に関係があったと間違いなく濃厚に思われます。つまり共犯だった!と。おそらく篠崎信夫が東京に出張した時には同校長は秋田書店にも寄ったりして山上たつひこと会っていると、同性愛の趣味があるのでそういう方面で特に親しくなっていたと思います。この漫画に出てくる練馬オカマ倶楽部っていう言葉がよく出ていたのですけども、その練馬オカマクラブに篠崎信夫も参加していたのではないのかなぁ?と思われます。多分、篠崎信夫もそのメンバーだったと思います。キチガイですよ。 🍵 🍝🍲 🍀 🍇 🥝 ☕ 🍤🍣
この漫画では、よく 主人公のガキデガが 袋叩きになって血だらけになるシーンが書いてありました。 実際には余の これまでの人生で 、そんなことは実際には、起こらなかったのですけども 、余に対する悪意が世間に あるわけでした 。 こちらは 震え上がっとったですよ、 余は当時、この漫画でどんなに嫌な思いをしたか!、心が暗くなったことか!嫌な、暗い青春をこのマンガのせいで送ったことになりました。その他にも研ナオコの「あばよ」っていう歌、これは彼女と私の恋愛を妬んで彼女とのご縁を妨害する歌で彼女に対する攻撃の歌でありました。中島みゆきの作詞、作曲。 🍮
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また、ダウンタウンブギウギバンドの宇崎竜童と 阿木耀子 の「港のヨーコヨコハマヨコスカ 」という歌も、これは 尾崎竜童が サングラス をはめてあんたあの子の何なのさというセリフがこもった当時流行した歌で私共の恋愛関係の破綻が来ることを願った呪いの歌であります。🌷🌹🧄🍉🥒 🥣🍝 .🍜🍆🍒 🥣🍝🍛 ☕ 🍤🍣
細川たかしの『心残り』の歌 も同じ意味で 彼女と余に対する悪意のある流行歌でした。これは中村泰士作曲 なかにし礼作詞でした。また細川たかしの歌で『女の十字路』中山大三郎作詞 浜圭介作曲というのがあるが、これも私どもの恋愛のことを妬んで攻撃する歌でした。彼女と余の間の恋愛関係を妬む歌、また攻撃する流行歌とか漫画が流行していて当時、余の青年時代どんなにか嫌な思いをして心が細る思いを当時して苦しかったことでしょうか! 🥣🍝 🍇🥝 🍲🌷🌹 🍮🍉🥒 🍀
NHK大河ドラマ、昭和51年( 1976年) 『風と 雲と虹と』いう番組。 脚本、福田善之 音楽、山本直純 、 語り 加瀬次男、加藤剛→ 平小次郎将門、吉永小百合 →貴子姫、 山口 崇→ 平貞盛、 露口茂→ 藤原秀郷、 草刈正雄→、緒形拳→ 藤原純友などが演じて いた 番組ですが あれは当時の私どもの色恋のことで妬んで差別攻撃する( 時代は違いますが) 意味あいを盛り込んだ 悪意ある大河ドラマでした。 山口崇(平貞盛)が 浅尾哲次、 (吉永小百合、貴子姫)が静岡幕屋にはいらっしゃった 信者さんの若い娘さん(彼女は吉永小百合に似ていた?)、 加藤剛(平将門)が余に引っ掛けてあった。 🍵 ☕🍝🍲 🍆🍒 🍇 🥣🍱 🥣🍝🍛
だから、NHKは日本放送協会ではなくて、日本犯罪狂会だと言うのです。 上記の歌謡曲と同じ意味合いで、 彼女と余に対する人身攻撃の大河ドラマでありました。平 将門は坂東で反乱を起こしましたので (承平、天慶の乱)、国に対する謀反ということで 余が国に対する謀反を起こしたということにも NHK はこのドラマで主張したわけです。余の 恋愛の事が日本国に対する謀反だ、犯罪だ!と言ったのですからNHKは狂ってる、恐ろしい。私共の色恋のことが 国にとって犯罪なのである!のだということを NHK はこのドラマで主張したわけです。それでもって彼女がセクハラを受けて大変な性的な苦しみを与えられて、余も命が狙われることも浅尾哲次の指導でキリスト教団体である幕屋であったわけです。 🥣🍝 🍇🥝 🌷🌹🧄 🍮 🍀 🍲🌷🌹 🍤🍣
その頃のテレビ、ラジオ 、漫画での私達の色恋への妬みの報道は 勿論のこと 篠崎信夫中学元校長がそうするように依頼し 運動 していた だろうと思いますが この ことにも原因にあるはずです 。 🌷🌹🧄 🍮 🍀
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その頃も今も同じだが今に至るまでGHQは既に日本にはいないが、GHQの名代でその日本を指導する筋の米国の権力機構が存在していて、3S政策で日本を退廃させる事、骨抜きになる事を 行政で指導することになっていてGHQに該当している部分がCIA や米軍や在日等だろうと思う。🍀.🍜 🍇🥝 🍮🥣🍝 🌷🌹🧄 🍤🍣
余は恐らく間違いなく 昭和43年(1968年)の岐阜薬大の学生の頃 浅尾哲次と 篠崎信夫元中学校校長は 会っていたと思うし、 また篠崎信夫から その時に浅尾哲次は草井に蛇のように または金魚のクソみたいに 一生付きまとって嫌がらせや加害行為をするように唆(そそのか)されて、それに浅尾は同意したと思われるのです。その時には勿論、篠崎は浅尾哲次に向かって、また「国からもあなたが草井に付きまとい、そいつに差別、迫害して活躍することについては 援助や手当て、厚遇がもらえる。また、出世も保証されます。」ということ等まで おそらく約束されていたと思います。🍮🍀
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一民間人の篠崎信夫元校長がそんなことが出来るのか?と思われるかもしれませんが、それが可能も可能なんです。 .🍜 ☕ 🍉🥒 🥣🍝🍛 🍤🍣 🍆🍒
篠崎信夫は悪魔でして、オカマの趣味があり、女装して、口紅を塗ったりして、オカマの趣味のある政治家や官僚やマスコミ等の有力者や新聞社、テレビ局、ラジオ局、芸能界の有力者等の人とホテル等で相手にしていた、そして余の差別、迫害をお願いをしたと思う。篠崎信夫は男色の性の供与でもってこれらの有力者達に余に対しての迫害、差別を訴え、お願いをしていたと余は思うのである。🍀🌷🌹🧄 🍮 🥣🥣🍱 🍇🥝 🍵
つまり、篠崎はご自分の肛門を武器に使っていた と思うのです。かくて余の差別はアホの肛門野郎の篠崎信夫のため、夜、ベットの中で形成されたのであると言えるか ?! と思う。 汚い男である。勿論のこと、当時の官僚とか政治家もそのことに一枚噛んで いて 篠崎は呪っていて余の恋愛とか結婚をさせない、邪魔するということ を決めていたし、また余の進学も足を引っ張ることも 、 また人との付き合いについても監視されて いつも妨害されて、孤独にさせられるということとか家宅侵入 も 常時受けて見張られるということとか 諸々の嫌がらせを 受けるように 決めていて、そのように、国側に訴えていたのであると思うのです。 🍮🍇🥝 🍀🥣🍝
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文中 、品の悪い表現が出ていますけども、 ご容赦ください。 お目障りで申し訳ありません 。客観的事実として 申し上げたつもりです。
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余は4月前半2回、極端に落ち込んで自殺しようか !と深刻に悩んだ。しかし、なんとか回復しました。
令和 5年 5月4日 (木) 🌷🌹🧄 🍀 草井 修喜
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