見出し画像

脳出血闘病記302 大好きだった、叔父の最後の一言

だった、と書いているので、お分かりだと思うが、僕が、大好きというより、尊敬していた叔父さんは、僕の母が、亡くなる、づっと前に亡くなっている😂
叔父さんの名前は、信吉さん、祖母の話によると僕の母親が、利発で勉強ができたのと対照的に、勉強が大嫌いだった信吉さんは、中学校を出ると、そのまま電材問屋に丁稚奉公に行き、
真面目に働き、その後、独立し、僕が大学生の頃には、立派な電材屋の経営者になり、埼玉県の電材組合の会長を歴任するぐらいになっていました。
僕が、社会人になり、エンジニアとして独立し、なんとか食えるようになったころ、叔父は、病気に倒れました。
腹痛から始まり、なかなか病気が特定できず、暫く検査を繰り返した後、獨協大学病院で、手術が行われました。
叔父は、160㎝と決して大きくない身体ですが、会社の前の駐車スペースに、業者の若い衆が車をちゃんとスペースの中に停めないと、
怒鳴り散らして、停めさせなおさせるほど、厳格で、雷親父的な一面もあり、まあ、昔ながらの、短気な職人気質の人でした。
そんな、叔父が、手術後、お見舞いに行くと、ベットに横たわり、色んな管が身体に繋がれ、小さい身体がさらにひと回り小さくなった印象でした。
順調に、回復し、退院の時に、たまたま、誰も、迎えに行けなくて、僕は、時間に余裕があったので、僕が迎えに行くことになり、
ちょうど、お昼ごろだったので、何か食べて帰ろうという事になり、僕は、病院の近くに、穴子寿司が、とても美味しい寿司屋があるの知っていたので、そこに、叔父さんと叔母さんを連れて行きました。
そこで、叔母さんが、話しだしました、この間、若い看護婦が、点滴をしに来たとき、何回も針を上手く入れられず、あんまり失敗するので、
普段温厚な、叔母さんが、文句を言うと、叔父さんに怒られたと😣
叔父さん、が言うには、たぶん、新人の看護師で、一生懸命やってくれてるんだから、ブツブツ言ったら、可哀そうだろうと
あの、業者の若い衆を怒鳴り散らす叔父が、針が、入るまで、黙って、じっとしていて、入ったとき、ありがとうと一言、言ったみたいです。
そして、食べ終わって、僕は、それまでに、叔父に、色んな事で、世話になっているし、色んな所でご飯も食べさせてもらっていたので、ここは、僕が払うよと、支払いをするつもりで、席を立つと、叔母が、いい、いい、払うからと言って、席を立とうとしたとき、叔父が一言、ここは、洋志(僕の名前です)に御馳走になろうと言ったのです。
このとき、いろいろな意味で、とても清々しい気持ちの良さになったことを今でも、よく覚えています。
それは、一人前の大人として認められたという気持ちと、少しは、お返しが出来たかなと言う気持ちと、その気持ちを受け止めてもらった、という気がしました。
よく、叔父が会社をやっていて、利発で、器用だった母が、男で、会社やったら、もっと成功したのにとか言われていましたが、
それは違うんだと、この時はっきり分かりましたし、叔父のチャーミングさが、よく分かり、こんなところが、人を引きつけ、会社が成功していったんだと分かりました。
叔父は、一時は回復したものの、再発し、今度は、母の知り合いの、無理が効く病院に入院し、延命目的の治療になってしまったので、ほどなくして経口気管挿管が行われ、叔父は、言葉が発せられなくなり、これも、今でも覚えていますが、横浜の大黒ふ頭近くの、横浜冷凍の新規の冷凍倉庫の温度管理システムをやっている時で、その倉庫は、首都高速から、大黒パーキングエリアに入っていくときに見えるので、それを見るたび思い出しますが、
叔父と叔母には、子供が3人いて、僕を含めて、4人兄弟みたいに育っていて、その日、長男から、携帯に電話がありました。
長男が言うには、これ以上親父を頑張らしても、辛いだけだから、話し合って、明日、経口気管挿管を抜こうと思うと言いました。
ということは、そのまま、亡くなるということだ。
システムの試運転中だったが、僕は、翌日は、抜けさせてもらって、病院に駆けつけました、
病室にいたのは、叔母と、叔母の姉の2人でした、
叔父の子供三人は、叔父の会社で働いています、叔父の言いつけで、会社は、何があっても休むなと言われっていたかもしれません。
叔父がそうだったように、とにかく、会社のカレンダー通り、全く休まず、朝8時から、夜8時まで、子供たちも一切休まず働いていました。
仕事量としては、僕の方が、圧倒的にやっていましたが、休みは、僕の方が、圧倒的に休んでいました。
僕の会社が、順調になった頃に、いっちょまえに、叔父に、そんな働き方、今の時代に合わないと言ったら、真面目な叔父だけに一蹴されて、そんなこと出来るかと言われました😅
とにかく、その時は、叔母と、叔母の姉、僕と医師だけで、叔母は、気管挿管されたときから叔父は、声を出しことが出来なくなっていたて、叔母は、叔父と話したいといつも言っていたので、どうしても、最後に一言話したかったんだと思います、これを外したら、一言でいいから、会話できるかなと、何度も何度も、祈るように繰り返していましたが、外したときに、声を発することなく、心電図測定器から、ピーと言う音が病室に響き渡りました。
でも、おそらく、叔父が、何か言えたとしたら、”ありがとう”と言ったんだと思いますし、僕には、聞こえたような気がしました。
寡黙で実直でチャーミングな叔父でした。

#カタマヒロ   #脳出血   #片麻痺    #動きのコツ研究所     #叔父   #脳卒中当事者会   #SDGs的家族型リハビリ  

いいなと思ったら応援しよう!