32歳の私が始めた終活②モノ編――物理という枷――
物欲まみれだった二十歳の時、可愛いものは何でも(お金が許す限り)欲しい!!という、ラデュレのマカロン並みに甘い考えを持っていた。
3月11日に地震が起きた時、コピス吉祥寺のジュンク堂にいたわたしは、練馬にある実家まで数時間かけて歩いて帰った。
大変な苦労をしている人がいるようだという意識はあったが、被害のあった震源地から離れた場所に住むお気楽大学生の日常は変わらなかった。
が、わたしのモノに対する考え方はその時期を境に変わったらしい。
様々な思い出を内包した雑貨や写真を眺めるたび、それがお気に入りであればあるほど、これが流されちゃったら最悪だ、流されることに怯えるくらいなら自分で捨てちゃいたい、と思うようになった。
嫌われたくないから自分から冷たい態度を取って嫌われてやるとか言い出しそうなメンヘラ的思考法をもってして、わたしの所有物は減っていった。
それから12年の時を経てわたしがたどり着いたのは、
有事の事態に自分が守れる可能性があるのは、自分が持ち運べるだけのモノ(あるいは、人)だけ
というシンプルな結論だった。
つまり、ほぼ全て、守れない。
本や書類や写真を自炊(スキャン)し、見ていて幸せになる可愛い小物たちは写真に収め、外部PCからもアクセス可能なようデータ化した。
願わくば、エヴァの綾波が住んでいる牢獄のような部屋に住みたい。
しかし、そんな風にして本を切り刻んでいる時はたと気づいたのは、
ああ、わたし自身を切り刻むことはできないんだなあということだった。
いや待て、マトリックスの世界に行けば、人間がデータ化されて生きるというのも可能なのではないかというSFチックなことを考える。
とはいえ現状、人間本体は物理を頼ってしか生きられない。残念だけど。
津波で流される人の映像を見た時それに思い至らなかったわたしは、
やっぱり、激甘だ。