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小林さん

 工場で一緒に働く小林さんはいつも金がないと嘆いている。どうしてそんなに金がないんだと尋ねてみても彼自身分からないと答えるしかない。

「給料が振り込まれたらすぐに貯蓄用の口座に振り込んでいるのに、月末になると不思議とそっちの口座に手を付けないと生活ができないんです」

「不思議だね」

「本当に不思議なんです」と小林さんは言った。そしてフィリップモリスの安くてまずい煙草をふかし、ボスの缶コーヒーを一口飲んだ。

「最近よく考えるんです。犯罪組織が自分の口座から金を吸い取っているんじゃないか、と」

「へえー」僕は水筒にいれてある冷たい水を飲んだ。「ちなみに、煙草代とかコーヒー代は削ったりしないの?」

「そんなこと出来ませんよ。煙草と缶コーヒーは生活必需品ですよ」

「でも、煙草は百害あって一利なしとよく耳にするけど…」

「そんなこと分かってますよ。でも、止めたくないんです」

「どうして?」

「かっこいいからです」

 小林さんは丸まった背筋を伸ばして胸を張った。フィリップモリスの安くてまずい煙草を咥え、煙を吸い込んだ。いつもより時間をかけた吸い方だった。そしてまたゆっくりと煙を吐き出していくと彼は咳き込み始めた。

 僕はもう一度水筒に口をつけた。中身が空になった。ライン稼働するまでにウォータークーラーの冷たい水を補給したかった。


 作業場に戻るとすぐに稼働開始のアラームが鳴った。コンベアが動き出し、場内にボルトの締め付け音が鳴り響きだす。

 ガリガリとうるさい音だ。耳栓をしていても響いてくる。僕は部品台車から鉄骨のようなフロントバンパーを取り出してセットした。そしてライフルの銃弾にも見える先の尖ったボルトを十本手に取り、一本ずつ締めていった。締め付けるたびにインパクトの振動が腕に伝わってくる。おまけに首を軽く動かしただけで関節の音がした。

 全てのボルトを締め終えると、次のボディーに取りかかった。重たいフロントバンパーをセットして、ボルトを締めていく。うんざりするほどに単調で退屈な作業だった。作業台に置いてある時計の針は全く進んでいない。次の休憩まであと何台あるのかと考えてみたが、式が組み立てられなかった。

 僕はため息をついた。簡単な算数ができなくなったことを嘆き、またため息をついてしまった。

「ため息なんか突いてどうしたんですか」

 ライン管理を担当している菅田さんが声をかけてきた。黒くて長い髪の毛を一つに結い、彼女が動くとそれは馬の尻尾みたいに左右に揺れた。

「計算ができなくなったんだよ」

「なんの計算ですか?」と菅田さんは言い、フロントバンパーを部品代車から取り出してセットしてくれた。

「次の休憩まで何台車を作るかだよ」

「この時間帯は百十五台です」

 彼女の答えを耳にして、笑うしかなかった。百台以上まだ残っている。時計の針は一向に進んじゃいない。電池が入っていないんじゃないかと思って手に取ってみたが、電池はあった。短針と長針は瀕死状態みたいで動いていなかったが、秒針は違った。疲れを知らないマラソンランナーのようにぐるぐると盤面に刻まれた数字の上を過ぎていく。

「なにぼさっとしてるんですか。手が止まってますよ」

 菅田さんに急き立てられ、僕は作業に戻った。ボルトの箱に手を突っ込んだ。

「まだこんな作業が続くと思うとやる気がなくなってくるよ」

「でも、あと少しでラインが止まりますよ」

「マジで?」

「ええ。部品が届いていないんで」

 ラインが止まることが分かると俄然やる気が湧いてきた。ボルトを一本締める間に左手の指が次弾を準備した。ソケットにセットしてバンパーとボディーを締め付けていく。作業の遅れを取り戻すのに時間がかかることはなかった。

「動きが早くなっていますね」

「そりゃあ、止まると分かれば誰だってやる気が湧いてくるよ」

 僕は鼻歌を口ずさみながら作業を続けた。


 菅田さんが言ったとおりラインは止まった。取りかかっていた作業を終えると、各工程の清掃を命じられた。僕は清掃用具から箒とちりとりを持ってきて、ラインサイドの床を掃き始めた。

「相変わらず真面目に取り組んでいるね」

 見上げると、同僚の篠田さんが立っていた。箒の柄にあごを乗せ、眠たそうな目をして僕を見ていた。

「一応仕事ですから」僕は箒で集めた埃やゴミをちりとりに集めた。「それに真面目にしとかないと、注意されますよ」

「注意? 誰が注意するんだ」

「菅田さんとかです」

「あれが仕事をしてる姿か?」と篠田さんがあごで指した。

 僕は指された場所に目を移した。小林さんと菅田さんが二人で談笑をしていた。菅田さんは時々小林さんの身体を叩いたりした。

「なんですかあれは」

「見たら分かるだろ」

 そこから先を口にすることができなかった。僕は箒にしがみつき、そのままずるずると滑り降りるようにして床に膝を突いた。

「お前、菅田に気があったのか?」

 僕は小さく肯いた。

「止めとけ止めとけ。お前とは立場が違うんだ」

「それは小林さんも一緒じゃないですか」

「あいつは今度正規登用の試験を受けるんだとさ」

「本当ですか」

「ああ、本当だよ。菅田に聞いたんだけど、あいつが正規登用の試験を受けることが付き合う条件だったんだよ」

「へえ…」

「お前は受けんのか」

「僕は遠慮しときます。正社員とかあまり興味ないんで」

「そうか」と篠田さんが言った。「じゃあ、ちりとり借りてくぞ」

「ええ」

 篠田さんは僕の手からちりとりを受け取ると自分の工程へと戻っていった。


 翌月正規登用試験があった。小林さんは問題なく試験と面接を突破した。朝礼で班長が彼に辞令を渡すとき、小林さんは大きな声で返事をした。背中に定規でもしこんだみたいに背筋を伸ばして、胸を張っていた。いつも喫煙所で金がないと嘆いていた姿とはかけ離れている。部屋の隅に立つ菅田さんもどこか嬉しそうだった。

「おめでとう小林君。これからはきみも我々の仲間だ」

「はい! よろしくお願いします!」

 小林さんが深々と頭を下げると拍手が鳴った。当然、菅田さんも手を叩いていた。ここにいる作業者のなかで一番大きく手を叩いているようにみえた。

「じゃあなにか一言」

「ええ、それじゃあ…この場を借りて言わせていただきます」

 小林さんが作業者たちを前に立ち、咳払いをした。そして彼は菅田さんと入籍したことを言った。

「まだまだ二人とも半人前ですが、今後ともよろしくお願いします!」

「勝手に私を半人前扱いするなよ」

 菅田さんが前に出てきて、小林さんを叩いた。

「痴話喧嘩をするなら余所でやれ」

 班長が呆れていた。

 でも、二人の耳にはそんなこと届いていなかった。小林さんは菅田さんを抱きしめて、彼女に口づけをした。菅田さんも最初は彼の背中を叩いていたが、諦めたように彼の背中に腕を回した。

 班長は苦笑いをして首を振り、作業者たちはヤジやら歓声を投げかけていた。

 僕は無性に煙草を吸いたくなった。


 安定した職に就き、若くて綺麗な女性と結婚した小林さんはまさに順風満帆だった。フリップモリスの安くて不味い煙草から、トレジャラー・ブラックに切り替えた。黄金色のティップペーパーを咥えて、彼はいつも喫煙所の中心にいた。大きな声音は隅っこで煙草を吸う僕の耳元にも届いてくる。話の内容は主に家庭でのことで、ときどき菅田さんの話題も出てきた。菅田さんも結婚して以来、あまり顔を合わすことがなくなった。彼の話では出産を控えていろいろと準備があるらしいとのことだ。

 喫煙所から戻り、稼働準備をしていると小林さんが契約更新の有無について尋ねてきた。「しませんよ」

 僕ははっきりと口にした。小林さんは不思議そうな表情をして、肯き、「分かりました」と言って事務所へと足を進めていった。

 稼働開始のアラームが鳴ると僕は普段よりも乱暴にフロントバンパーをセットして、いつもよりも長くボルトを締め付けた。


 僕は新しい仕事を探す必要になった。でも転職活動は上手くいかなかった。履歴書を書いても面接にすら辿りつけず、日々焦りが積もっていく。気を紛らわすために缶ビールとポテトチップスを手に取ることが多くなった。塩っ気のあるポテトチップスをバリバリと噛み砕き、水でも飲むみたいに缶ビールで喉の奥に流し込んだ。ポテトチップスで腹が満たされ、アルコールで程よく眠ることができた。そしていつのまにか習慣と化してしまっていた。僕は仕事終わりに酒とジャンクフードを口にしなければ気が晴れない身体になっていた。

 僕とは反対に小林さんは順調だった。マジでむかつくぐらいに彼は安穏な日々を送っていた。糊の効いた作業服には皺や染みがなかった。歩く時は胸を張り、背筋をピンとのばした。会話のときはしっかりとした口調で話し、使われている単語もはっきりと聞き取ることが出来た。年齢に関係なく、相手を敬い、毅然とした態度をとることができた。

 まるで別人だった。皮だけ同じで中身をまるまると変えてしまったんじゃないかと何度も思った。篠田さんにそのことについて話してみたが、彼は笑って取り合ってくれず、心配する始末だった。

「お前は契約更新しないんだろ。さっさと次の職を決めたほうがいい」

 それは事実であり、僕には言い返す気力もなかった。


 契約満了まで残り一ヶ月を切ったある日、僕はいつもと同じように喫煙室で煙草を吸っていた。隅っこの壁にもたれかかり、ため息とともに煙草の煙を吐いていた。不摂生がたたり、身体のあちこちに痛みがあり、鎮痛剤を飲まなくちゃ仕事ができなかった。仕事が見つからず、ため息をはき続けていると、小林さんが声を掛けてきた。

 僕は見上げるように彼を見た。後光を背にして立つ彼の表情がはっきりと見えない。手をかざして光を遮ってみると、そこには金欠で悩み苦しみ、フィリップモリスの安くて不味い煙草を愛飲していた小林さんの顔があった。

「小林さん!」

 僕は立ち上がり、彼のために席を譲った。

「ありがとうございます」と小林さんが言った。その口は打ち上げられたばかりの魚のように弱々しかった。

 彼は以前の定位置に座り、煙草に火を付けた。フィリップモリスの臭い煙が鼻についた。「一体どうしたの?」

「え、なにがですか?」

 彼は精気のない一対の瞳を向けてくる。底の見えない暗い穴底のような瞳だった。煙草の煙を吐き、皺や染みが目立つ作業服のポケットからボスの缶コーヒーを取り出して口を付けた。

「そのくたびれた様子だよ」

「え?」

「菅田さんと結婚してからすごくしっかりとしてたじゃないか。別人みたいにハキハキとした声を出し、いつも胸を張っていただろ? 吸っているトレジャラー・ブラックだったのに、クソ不味いフィリップモリスにもどってるじゃないか。どうしたんだよ一体…」

 僕はまくしたてたが、彼は肺を患った老人みたいに返事をするだけだった。見るからに理解が追いついていない様子だった。

「疲れたんですよ」

「なにに?」

 彼は周囲を見回した。そして口を開いた。「結婚生活にですよ…」

「菅田さんとの生活が上手くいっていないの?」

「そういうわけじゃないんです…。ただ…気丈に振る舞い続けるのにつかれたんです…」

 電話の着信音が鳴った。ステッペンウルフの『born to be wild』だ。

 小林さんはすぐに煙草を消して立ち上がった。姿勢を正し、胸を張り、そして電話に出た。

 彼はハキハキとした口調で返事をしつつ、お辞儀をした。

 電話を終えると、小林さんはまた元の精気のない表情をに戻った。背中を丸め、よろよろとその場にへたり込んでしまった。誰からの電話なのかと尋ねると、『奥さん…」とか細い声で答えた。

「仕事帰りに買い物してこいと言われました…」

「ああ、そういうこと…」

 僕はニヤリと笑った。

 小林さんは新しいフィリップモリスの不味い煙草に火を付け、ため息とともに煙を吐いた。

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