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清掃員

 客がセックスだけを目的にこのラブホテルを利用する。それは構わない。でも事後の部屋の掃除をするのはいつも萎える。ベッド脇のゴミ箱に捨てられたコンドームは履き潰したストッキングみたいによれよれで、中に溜まっている精子はどろりとしていてイカくさい。多くの客はコンドームの口を閉じていく。しかし、ときには口を閉じずに捨てていく客もいた。それはそいつの人間性をよく表していた。

 ぼくは使い捨てたコンドームに手を触れることが嫌だった。たとえゴム手袋をつけていても抵抗があった。部屋の掃除についての手順が決まっているわけではないが、ぼくはなるべくゴミ箱の交換は最後にまわすようにしていた。

 でも同僚の新井は違った。彼は事後の部屋を物色することが好きだった。部屋に入り、真っ直ぐ向かうのがベッドの脇にあるゴミ箱で、そこを覗き込み利用した客たちの風貌やプレイ内容を想像することが好きだった。その次にテーブルに置いてあるものを手に取り、使えそうなものを見つけると懐に潜ませた。

「向井、これ見ろよ!」

 ぼくがバスルームの排水溝に詰まった陰毛を集めているとき、彼が中に入ってきた。手に持っていたのはビニールの切れていない赤いマルボロだった。

 新井はビニールを破り、中から一本取り出した。口に咥えて火をつけて吸った。煙草を吸う彼は獲物を狩った狩人みたいに満足げな表情をしている。

「新井さん、あまりそういうことやらない方がいいですよ」

「お前はクソ真面目だな」と彼は言った。彼の口から吐き出てくる煙が天井の換気扇に吸い込まれていく。「この仕事のいい点の一つは客の忘れていったものを自分のものにできることなんだよ」

「それってねこばばでしょ」

 新井はマルボロを深く吸い込むとぼくに向けて煙を吐き出した。

「ばれなきゃいいんだよ」

 ぼくは話を切り上げ、バスルームの掃除を続けた。バスタブに浴槽洗剤を吹きつけ、スポンジで擦り、シャワーで洗い落としていった。

「シーツの取り替えは済んだんですか?」

「とっくに済んでいるよ」新井は壁にもたれ、顎でベッドを指した。

 ベッドは整えられていた。部屋に足を踏み入れたとき、ベッドのシーツは剥がされ、けばけばしい掛け布団は台風で薙ぎ倒された樹木みたいに床に落ちていたのだが、ぼくがバスルームを掃除している間に彼はシーツを取り替え、四方の角を整え、その上から掛け布団をセットしていた。そして同時に客の忘れ物を物色していたようで、彼は戦利品の赤いマルボロを自慢げに吸い続けている。

新井はベージュの作業服の胸ポケットから携帯灰皿を取り出すと吸い殻を捨てた。

「俺は床に掃除機をかけるから便所は任せたぞ」

 ぼくの返事を聞かずに新井は業務用掃除機の電源を入れた。彼は運動不足の太った犬を無理やり散歩にでも連れていくように掃除機を引っ張った。狭い部屋のなかに掃除機の騒音が響く。

 ぼくは便所用の清掃道具を持って、言われた通りに便所掃除に取り掛かった。


 清掃員用の休憩所はホテルの地下にある。周りの壁は配管が剥き出しで、陽の光が差し込まない地下牢のような場所だった。そこでぼくと新井は客たちがセックスを終えるのを待っていた。新井は耳にイヤホンを挿し、スマートフォンで動画を観ている。ときどき彼は両手を叩いて笑ったりした。ぼくはそんな彼を目にしながら、巻紙の糊部分を舐めて巻き煙草を巻いていた。

「なあ、向井」

 新井がイヤホンを耳から外してテーブルに身を乗り出してきた。

「前から気になってたんだけど、自分で煙草を巻くのって面倒臭くないか?」

 ぼくは次の煙草を巻いている途中だった。リズラーの巻紙にゴールデンヴァージニアの刻み葉っぱを均等にのせ、吸い口にフィルターを置いて一気に巻き、また糊部分を舐めた。巻き終えた煙草の外観をチェックし、シガレットケースに収めた。

「慣れれば簡単ですよ。指先を使うんで、ボケ予防になるんじゃないですか」

「それ本当かよ」

「知りませんけど」とぼくは答えて次の煙草を巻いていった。

 新井がシガレットケースから巻き煙草を取り出すと指先でくるくるまわし、それから口に咥えた。

「一本もらうぞ」

「いいですよ。でもぼくと間接キスにしたことになるんじゃないですか?」

「構うもんか」と新井は巻き煙草に火をつけた。「俺は両刀使いだからな」

 ぼくは煙草を巻く手を止めた。

「それ本当ですか?」

「冗談だよ」と新井が言った。

「そういえば新井さんはベッドメイクが上手ですけど、前もこんな仕事をしていたんですか」

「自衛隊にいたときに叩き込まれたんだよ」

「自衛隊にいたんですか」ぼくは巻紙の糊部分を舐めた。「でもどうして辞めたんですか」

「薬物で捕まって、除隊させられたんだよ。休暇中にマリファナを吸っただけでさ」と彼は言った。「災害の時には重宝されるのに捕まれば邪魔者扱いだ」

「お勤めは何年ですか?」

「初犯だから執行猶予がついて、中には入っていない。でも色々と制限があって気楽に仕事ができるのがここしかなかったんだ。お前はどんな仕事をしてきたんだ?」

「色々ですよ」ぼくは巻紙に刻み葉っぱとフィルターをのせた。葉っぱが均等になるように両手の親指と人差し指を使って巻紙を動かし続けた。「警備のバイトから軽倉庫の作業員、コールセンターのスタッフ。それから…」

「ようはお前も訳ありってことだな」

「一言でいえばそうですね」

 ぼくは巻紙の糊部分を舐め、外観をチェックしてからシガレットケースの中に収めた。ケースには十九本の巻き煙草を並べてある。その外観は既成の紙巻き煙草と比べると安っぽく見え、そして細くて短かった。でも綺麗な見栄えだった。スマートフォンで写真を撮ってインスタグラムにアップロードしてもいいかもしれない。

「よし終わった」ぼくはシガレットケースを閉じると作業服のポケットに突っ込んだ。

「美味かったけど、すぐに吸い終わったよ」

 新井は灰皿に吸い殻を捨て、戦利品の赤いマルボロを取り出して新しく吸い出した。

「巻き煙草の巻紙は既成の紙巻き煙草と比べると燃えにくいんです。吸いさしにもう一度火をつけて吸ったりして、煙草を味わうんです」

「貧乏臭くて俺には真似できねえわ」

 新井が椅子の背にもたれかかっていると、フロントからの電話が鳴った。彼は壁に設置してあった受話器を手に取り、丁寧な口調で応対した。彼が受話器を戻すと嫌そうな顔をぼくに向けた。

「三〇一の部屋の客が時間になっても降りてこないんだってよ」

「ってことは、ぼくたちに部屋に行って確認してこいってことですか?」

 新井がうなずいた。

 ぼくはため息をついた。

 休憩時間を過ぎても客が部屋から出てこない。そのことにあまりいいイメージを抱くことができなかった。過去にこのラブホテルでは殺人や心中があった話を新井から聞いたことがある。ホラー映画や漫画で死体を目にすることはあっても、実際の死体をぼくはまだ目にしたことがない。

 新井は煙草を灰皿に押し付けると、椅子から立ち上がった。

「じゃあ、行くとするか」

「何か武器でも持っていったほうがいいんじゃないですか?」

「どうしてだよ」

「いや、殺人犯が死体を刻んでいるかもしれないし…」

 新井が鼻で笑った。

「だったら、箒でも持ってこいよ」

 新井は作業員用エレベーターに乗り込んだ。ぼくは壁に立てかけてあった箒を手に持ってから新井の後に続いた。


 エレベーターが三階に到着すると、新井は白い大理石で敷き詰められた廊下に足を踏み出した。彼は物怖じせず、どんどん目的の部屋へと向かっていく。

「さっさと来いよ。なにびくびくしてるんだ」

 新井は廊下の途中で振り返り、ぼくを呼びつけた。

「いや、普通警戒するでしょ」

ぼくは箒を胸に抱きしめて周囲を見渡した。廊下にはぼくと新井以外の姿はない。天井の照明はピンク色に染まり、耳に微かに聞こえる音量でラウンジ・ミュージックが流れていた。各部屋のドアには番号札がかかっていて、入室中のランプが点灯していた。それは目的の部屋でもある三〇一号室も同じだった。

 新井が数回ノックをしてみたが、反応はなかった。

 彼は繰り返しドアをノックし続けた。やはり反応はない。

「入れ違いで部屋から出ていったんじゃないですか?」

「馬鹿。そうだったら、部屋のランプが消えてるはずだろ」新井が入室中のランプに指を指した。「とにかく部屋の中にはまだ誰かがいるってことだ」

 新井はドアノブを手に取るとゆっくりと回した。ぼくはそばでじっとドアが開くのを見守った。

 ドアが開くと赤い絨毯の上に落ちてある女性用の下着が目に入った。そのそばには赤いワンピースも脱ぎ捨ててある。

「お前が先に入れ」

 新井がぼくの背中を押した。ぼくは倒れ込むように部屋の中に入ってしまった。

「ちょっと新井さん」

「上司の命令は絶対だ。背けば鉄拳が飛んでくるぞ」

 ぼくは舌打ちをした。箒の柄を先端に向け、床に脱ぎ捨ててある下着を踏まないように慎重に、かつゆっくりと足を進めた。

 三〇一号室はコンパクトな造りだった。すぐ奥にはベッドがあり、壁にはテレビが取り付けてある。テーブルには備品の電気ケトルやお茶のパックやインスタントコーヒーが置いてある。テーブルの下には独身用の冷蔵庫のコンプレッサーが蠅の羽音みたいな音を出していた。

 ベッドはさっき掃除した部屋と同じだった。シーツがめくれ、けばけばしい色の掛け布団が床に落ちている。ゴミ箱の中を覗いてみるとコンドームが捨ててあった。箒の柄で触ってみたが、中にはイカくさい精液が詰まっている様子もなく、破いて捨ててある状態だった。ぼくは部屋の壁に目をやったが血の痕もなければ、穴が空いていることもなかった。

「新井さん、こっちは特に変わったことがないです」

「向井、こっちだ」

 声はバスルームから聞こえた。駆けつけると、床に裸の女性が倒れていた。新井は彼女を抱き抱えるとベッドに移した。新井は首筋に手を当て、「死んではいないようだ」と呟いた。

 女性は全身に痣があった。赤く腫れ上がり、おそらく十発以上は殴られている。とくに顔は酷かった。目元がお岩さんみたいに腫れ上がり、口から血が流れている。新井はシーツで彼女の唇まわりの血を拭いてやり、備品のペーパータオルを使って腫れた目元に添えてやった。

「警察に連絡したほうがいいですよね…」

「馬鹿。それよりも救急車だ」

 ぼくは作業服のポケットからスマートフォンを取り出した。画面をタッチし、電話をかけようとしたそのとき、女性が手を伸ばしてきた。

「だ、だめ…れんらく…しな…いで…」

 新井とぼくは向き合った。


 新井はシーツで裸の女を包み、お姫様抱っこで部屋を出ていった。

「悪いけど部屋の掃除は頼むぞ。フロントには俺の方から連絡しておく」

「分かりました」

 新井が去ったあと、あらためて部屋の中を見回してみた。女性の下着や衣服が床に散乱し、ベッドは台風の通過した後のような惨状だった。テーブルの灰皿には数本の吸殻とアルミホイルで作った筒があった。ぼくはそれを手に取って筒を開いてみた。中には塩の結晶のようなものが数粒残っている。筒を元通り巻き直すと灰皿に戻した。

 ここで何があったのかは分からないが、彼女を殴った相手がやばい人間であるとだけは理解した。

 ぼくはリネン室に行き、新品のシーツと備品の補給品を持って部屋に戻った。


 業務用エレベーターに乗って地下の休憩所に戻ると、新井とフロント係の松田が話し合っていた。裸の女性はシーツに包まれ、椅子に座っている。その姿から精気を微塵も感じなかった。包まったシーツを両手で掴み、腫れ上がった目で警戒するようにじっとぼくを見つめている。

「部屋の掃除は終わりました」

「すまねえね」と新井が言った。

「なにかやばいものとかあったか?」と松田が尋ねてきた。

 ぼくはうなずいた。ゴミ袋を突き出し、中にアルミホイルを巻いた筒があることを話した。筒の中身についても話した。松田は鳥の巣のような髪を掻き、「めんどくせえなー」と言った。

「で、彼女はどうするんですか?」

 松田はパイプ椅子に座るとズボンのポケットからホープの箱を取り出した。煙草を咥えて火をつけた。

「どうもこうもないよ」

「警察に通報しますか?」

「しない」松田が煙草の煙を吐き出した。「警察が介入してくるといろいろと厄介だからな」

「じゃあ、どうするんだ?」と新井が言った。

「まずは彼女が何者なのか、そこから探ってみよう」

 松田は吸い殻を灰皿に押し付けた。パイプ椅子から立ち上がると、シーツに包まれた女性の前に立った。

「ねえ、名前はなんていうの? 部屋で何があったのか話してくれない?」

 松田の質問に彼女は答えなかった。腫れ上がった目から感じ取れることは警戒心ぐらいだった。

「三〇一の部屋に残っていたものは?」

「彼女の下着と衣服、それからこれですね」

 ぼくは作業着の胸ポケットから一枚の紙を取り出した。それは部屋の隅に落ちてあったちらしだった。

 松田がちらしを受け取った。それを一読すると、階段を駆け上がっていた。

「どうしんたんですかね」

「さあな」新井は松田が座っていたパイプ椅子に座ると赤いマルボロを取り出した。煙草を口に咥えて、火をつけた。

「あ、の…」

 彼女が口を開いた。新井が顔を向けると、彼女は人差し指と中指を使って煙草を吸う真似をした。

「吸いたいんだな」

 新井が赤いマルボロを彼女に向けて放り投げた。しかし彼女はうまく受け止めることができず、床に落としてしまった。

 ぼくは赤いマルボロを拾い、彼女に渡してやった。

「ありがとう…ございます…」

 彼女がマルボロを咥えると、ぼくは火をつけてやった。

「ねえ、名前はなんていうんですか」

「こ、は、る」と彼女は呟いた。

「こはる?」

 彼女がうなずいた。

「どんな字を書くの?」

「小さいに季節の春」

「小さいに季節の春、か」

 ぼくは繰り返して呟いた。

 もう一度彼女がうなずいた。

「いい名前ですね」ぼくもシガレットケースから巻き煙草を取り出して吸った。「小春さん、あの部屋で何があったのか教えてくれませんか」

 小春は答えなかった。彼女はゆっくりとマルボロを吸っているだけだった。煙を口から吐く気力もないようで、煙が口から漏れ出ている。

「新井さん、彼女の名前は小春というらしいです」

「そうか」

 新井の反応は素っ気なかった。マルボロの灰が床に落ちても彼は気にしなかった。フィルターを残して煙草を吸い尽くすと、作業靴の底で踏み消した。

 松田が階段を降りてきた。

「この子の正体がやっと分かったよ」

「どこの子なんだい」と新井。

「浅田組って知っているだろ?」

「たしか、このあたりを縄張りにしているヤクザですよね」

「そうだ」と松田が言った。「さっき電話で事情を話すと、組員をよこすってさ」

「じゃあ、小春さんはヤクザの女?」

「違うだろうな」と新井が言った。「多分、この子は浅田組が抱えている娼婦だよ」

「どちらにしてもこれでトラブルを抱えなくて済んだわ」

 松田はホープの箱を取り出して煙草を咥えた。火をつけて吸い出した。

 シーツに包まった小春は成り行きを見守っているようだった。


 新井は休憩所のロッカーから救急箱を取り出し、小春に近づいた。彼は濡れタオルでまず小春の腫れた肌を拭いた。痛みで彼女の顔が歪んだ。

「我慢しろ。すぐにお前の知り合いがやってくる。その帰りに病院にでも連れていってもらえ」

「会いたくない」

「誰に会いたくないんですか?」

 小春は答えなかった。新井が手当てしているのを眺めているだけだ。

 新井は彼女の腕に濡れタオルを当てていると、その手を止めた。

「なあ、お前やっているのか?」と新井が彼女に尋ねた。

しかし小春は答えない。彼女は黙り続けている。

「まあ、どっちでも構わないけどな。俺は警官でもないんだし」

「なんのことですか?」

 新井は彼女の腕の関節部分に指を刺した。そこには赤い斑点がいくつか浮かび上がっていた。

「注射のあと…。それって」

「多分モルヒネだろうな」と新井が言った。「こいつの眼を見てみろ。瞳孔が縮小してるだろ。それに眠たそうにしている」

 ぼくは小春の眼を見てみた。たしかに瞳孔が小さくなり、眠たそうな様子でいる。新井が濡れタオルを腫れた眼元に当ててみても反応しなかった。

 新井は腫れた部分に湿布を貼り、その上から包帯を巻いてやった。慣れた手付きだった。自衛隊で習得した技術なのか、と尋ねてみると「そうだ」と返事が返ってきた。

「これで一通りの手当は済んだ。あとは迎えが来るのを待つだけだな」

 彼は小春の手から戦利品の赤いマルボロを取り上げると、煙草を取り出して火をつけた。

「彼女は一体なんで殴られたんでしょうね」

「さあな」と新井が言った。「どうせ金のやり取りかなにかで揉めたんだろ。俺たちが首を突っ込むことじゃない」

「でも」

「なあ、向井」新井がテーブルに腰掛けた。「なんでもかんでも首を突っ込む真似はよしたほうがいいぞ。世の中には知らないことや関わらなくてもいいことが山ほどあるんだ」

「でも、新井さんは彼女に手当をしてあげましたよね。それは関わらなくてもいいことじゃないんですか?」

「それはあれだ」と新井は煙草の煙を吐き出した。「仁義ってやつだ。目の前に困っている人がいたら助ける。それは人として当たり前のことだろ? 俺はそれをやっただけだ」

「客の忘れ物をねこばばする新井さんの口からそんな台詞が出てくるとは…」

「馬鹿野郎!」と新井が言った。「それよりこいつの服を渡してやれ。素っ裸で会わせるわけにはいかないだろ」

「分かりました」

 ぼくは小春の衣服が詰まったビニール袋を彼女に渡した。彼女は腕を上げようとするが、動作が遅く、まるで油の切れたロボットアームみたいだった。ぼくは彼女の手にビニール袋を握らせたが、小春の腕はその重さにも耐えられなかった。床にビニール袋が落ち、中から下着や赤いワンピースが床に散乱した。

 ぼくは床に散らばった彼女の衣服を拾い集めた。すると赤いワンピースのポケットからスマートフォンの着信音が聞こえてきた。スマートフォンを取り出すと画面に田沼浩一と表示されてあった。ぼくは新井に顔を向けた。彼は顎をしゃくった。

「もしもし…」

「小春、小春か?」

 受話器から聞こえてきたのは若い男の声だった。

「小春さんならそばにいますけど」

「お前は誰だ! 小春に何かしたのか?」

 受話器から張り詰めた声が聞こえてきた。ぼくがスマートフォンから耳を遠ざけても男の声がはっきりと届いてくる。

「貸せ」

 新井がぼくの手からスマートフォンを取り上げると、スピーカーモードにして応対した。

「もしもし。あんたこの子の知り合いかい?」

「そうだ」と男が答えた。「お前は一体誰だ」

「この子が倒れていたホテルの清掃員だよ」

「ホテル? それはどこのホテルだ!」

「まあ、落ち着けよ。今この子の知り合いが迎えに来るし、あんたも来ればいい」

「迎えって誰が来るんだ?」

「浅田組の連中だよ。あんたも組関係の人間だろ?」

「違う!」と男が大声で否定した。「俺は小春の亭主だ!」

 新井が小春に顔を向けた。彼女はぼんやりとしていた。ほっておくと今にも寝てしまいそうな感じだった。


 新井が小春の亭主と名乗る男と話をしていると、松田が階段を降りてきた。その後ろから白いスーツを着た長身の男性がついてきている。その背後からはダボっとした服装の二人組の男たちが続いて降りてきた。

松田は腰を低くして、白いスーツの男性を小春の前へ案内した。

「豊原さん、こちらに座っている女性が先ほど電話で説明した方です」

「ありがとうございます」

 豊原と呼ばれた男は慇懃な態度で挨拶した。スーツの懐から黒い革製の長財布を取り出し、一万円札を三枚取り出した。

「これはお礼です。何かの足しにしてください」

「そんな滅相もない」と松田が言った。彼は皇族から銀時計を下賜されたみたいに遜った態度で金を受け取った。

 豊原はくるりと向きを変えると膝を曲げて、小春をじっと見つめだした。

「小春さん、かなり痛い目にあったようですね」彼は小春の全身に目をやり、腫れ上がった目元に手を当てた。

 小春が全身をびくりとさせてのけぞった。しかし豊原は腫れ上がった目元に手を当て続けている。そして顔を近づけると赤ワインの色のような舌で彼女の目元を舐めた。

 小春が悲鳴を上げた。しかし豊原は彼女の目元をレロレロと舐め続けている。

「彼女をどうするんですか?」

 豊原は舌を出したまま視線をぼくに向けてきた。後ろの立っている二人の男たちが足を一歩踏み出してくる。

「小春さんはあなたの姿を見てとても怯えています」

「向井! 豊原さんになんて口を聞くんだ」と松田が間に入ってきた。

 ぼくは松田を無視して話を続けた。

「それに彼女の旦那さんから今電話がかかってきてるんです」

 ぼくは新井に目を向けた。新井はまだ電話の最中だった。

「おい」

 豊原は立ち上がると、顎をしゃくった。付き添いの男たちのうちの一人が新井からスマートフォンを奪い取ると豊原に渡した。

「もしもし、田沼さんですか? 豊原です。お元気にしていますか?」

「おい、小春に何をした! 借りた金は昨日全額返済したんだ。俺の妻を返してくれ」

「全額返済した…少々お待ちくださいね」

 豊原は小春のスマートフォンを付き添いの男の一人に渡すとスーツの懐からiphoneを取り出し、電話をかけた。

 豊原は休憩所の隅に移り、電話で話を続けていた。その間小春の亭主である田沼が呼びかけ続けていた。彼はずっと小春、小春と呼びかけている。しかし、椅子に座る当の女性はぼんやりとし続けている。彼女はその場にいる誰にも目を向けていない。配管が剥き出しの壁を見続けているだけだ。

 豊原が電話を終えて戻ってくると、田沼に呼びかけた。

「借りたお金は確かに返済を終えているようです。ご苦労様です」

「な、言った通りだろ。だから小春を返してくれ」

「でも」と豊原が言った。「利子の分がまだ残っています。それを返していただかないと、こちらとしても奥様を返すわけにはいきません」

「そんな…」

 スマートフォンから聞こえる田沼の声は悲痛そのものだった。声の響きから彼が膝から崩れ落ちてゆくことが容易に想像できた。追い討ちをかけるように豊原が話を続けた。

「田沼さん、奥様はこちらで丁重にお預かりしています。だから安心して返済に専念してください」

 豊原はスマートフォンの画面をタッチすると電話が切れた。彼は付き添いの男の手からスマートフォンを取り上げると部屋の壁に投げつけた。スマートフォンが固いを音をたて、床に落ちていった。

「というわけです」豊原がぼくを見た。「これはうちの問題で、お兄さんの出る幕じゃないんです」

「しかし小春さんはあなたを恐れている。それに旦那さんは借金を返済したと言っている」

「さっきも申し上げたように、利子が残っているんですよ。それを返さないと彼女を返すことはできないんです」

「でも、借金のために人質を取ることが法的に許されるんですか。ここは」

 次の瞬間、鼻に痺れを感じた。ぼくは指を鼻に当ててみた。指先にはべっとりと赤い血がついている。目の前にいる豊原の表情から温和さが消え、目を釣りあがらせ、歯を剥き出しにした顔になっていた。目は血走り、ギラついている。

「ごちゃごちゃうるせんだよ。おめえに関係あんのかよ」

 豊原がぼくの作業服の胸ぐらを掴んできた。彼は片方の手でぼくの首元を締めてきた。息ができず、豊原の手を取ろうとするが力が入らなかった。

「なあ、お前に一体何の関係があるんだ? お前は正義の味方か? ああ?」

 豊原は片手でぼくの身体を持ち上げた。足をバタバタさせて、目玉を左右に動かしたが、視界に入ってくるのは天井の照明ぐらいしかなかった。

 腹部に強い衝撃を感じた。それは一度だけじゃなかった。四回ほど強い衝撃を感じると意識が遠のき、視界が暗転した。


 目が覚めると、ぼくはパイプ椅子に座っていた。作業着から酸っぱい臭いがした。呼吸がうまくできず、鼻を触ってみるとカチカチに固まった血が取れた。

「起きたか」

 新井は煙草を咥えていた。彼は濡れタオルを投げつけてきた。ぼくは上手く受け取ることができなかった。濡れタオルが顔に当たって痺れを感じた。

「痛えー」

「そりゃあ、痛いだろうな。あれだけ殴られたんだから無事でいる方がおかしい」

 ぼくは鼻に濡れタオルを当て、小春について尋ねた。

「さっきの連中が連れていったよ」

「小春さんは嫌がってたんじゃないですか」

「どうだろうな」と新井が言った。「表面上は特に嫌がっていなかったけど」

「これは通報するべきですよ」

「お前は馬鹿か? あんな痛い目にあったのにまだ面倒なことに首を突っ込む気か?」

 ぼくは返答できなかった。豊原から受けた暴行が頭の中で繰り返し浮かび上がった。瞼を閉じるとそれはより鮮明になった。胸ぐらを掴まれ、首を締められ、腹を殴られ、そして意識が飛んだ。その後どんなことが起きたのか、ぼくは考えたくなかったが、沸騰した液体が泡立つようにぶくぶくと浮かび上がってくる。

 気を落ち着かせるためにシガレットケースを取り出そうとズボンに手を突っ込んだが、それがなかった。もう片方のポケットに手を突っ込んだがやはりない。作業服の胸ポケットを探ってみてもない。

「どうした?」

「シガレットケースがないんです」

「ああ、それか」と新井は煙草の煙を吐き出した。「豊原が持っていったよ。お前をボコってるときにこぼれて出てさ、あいつが拾ったんだ。それを拾い上げて中身を見ていたけど、褒めていたよ。とても綺麗に巻いてあるって」

 ぼくはふらつきながらロッカーまで歩いた。リュックサックから巻き煙草の道具を取り出し、煙草を巻こうと思ったが駄目だった。途中で挫折し、その場にへこたれてしまった。

「これを吸えよ」

 新井が投げつけてきたのは戦利品の赤いマルボロだった。ぼくは一本取り出した。そして火をつけた。既成の紙巻き煙草の味を久しぶりに味わった。

 正直不味かった。なんでこんなものに六〇〇円も払って吸わらなければならないのか分からなかった。二、三口吸って床に押し付けて消した。

「不味いっすね」

「そうか」

「新井さんは何も感じなかったんですか?」

「感じない」と彼は言った。

「小春さんの旦那さんが可哀想に思わなかったんですか?」

「可哀想もクソもないだろ。お前をボコった奴も言ってたけど、どうして俺たちが面倒ごとに首を突っ込む必要がある?」

 ぼくは黙っていた。

「あいつらの問題は俺の問題ではない。そしてお前にとってもな」

 ぼくはため息をついた。

「この際だから正直に話しますよ。前からあんたのことをクソ野郎だと思っていた。客の忘れ物を懐に潜ませたりして、悦に浸っている姿を見ると虫唾が走った」

「なるほど」

「でも、小春さんを手当てしているとき、困っている人を助けることは人として当然だと言った。こんなクソ野郎でも学ぶことがあるんだと思った。ぼくはこんな場所で働いている奴らに対して見下した気持ちがあった。でも、それは間違っていた。本当のクソ野郎っていうのはぼくみたいな無意識の内に人を見下す人間だった」

「少しは成長したんだな」

「しかし、あんたはやっぱりクソ野郎だった。嫌がる小春さんをすんなりと明け渡した。旦那さんがどんな事情で金を借りたのかぼくには分からない。でも彼は小春さんを取り戻すために懸命に働いた。利子がどうのこうと理屈を作って彼女を返さないあの連中と同じくらいにあんたはクソだ。ダニだ。ぷかぷかと煙草を吸って、他人事のように振る舞っている姿を見ていると吐き気がする」

「便所ならあっちだぜ」新井が顎で示した。

 ぼくは立ち上がった。全身に痛みを感じた。唾を飲み込むと喉にも痛みを感じる。でもぼくは我慢した。ふらふらと歩き、床に落ちてあった小春のスマートフォンを拾い上げた。画面にヒビが入っていたが、まだ壊れていない。

「どうするつもりだ」

「分からない。けど、このまま放っておくことはできません。だから」ぼくは黙りこくってしまった。

「だから?」と新井が話の続きを催促してくる。彼は煙草の煙を口から吐き出す。「無駄な正義感なんて捨ててちまえ。力もない。頼るあてもない。けれど無駄に正義感だけがある。それは一番厄介なことだ」

 新井は煙草を床に投げ捨て、作業靴の底で消し潰した。

「最後に結局は自分の無力感に潰されていくだけだぞ」

 ぼくは反論ができなかった。

 そのとき松田が階段から降りてきた。鳥の巣みたいな頭を掻きながら、気難しい顔をしている。その後ろには見覚えのない男性が立っている。

「大丈夫か?」

「ええ。なんとか」

 松田がパイプ椅子に座り、ホープの箱を取り出した。煙草を吸い出すと、ジャケットの外ポケットからくしゃくしゃになった一万円札をテーブルの上に置いた。

「向井。それで医者に診てもらえ。ひどい顔だぞ」

 ぼくは黙って金を受け取った。それから休憩所の隅で突っ立っている男性について尋ねた。松田が「彼女の旦那さんだ」と答えた。

「亭主の田沼浩一です」田沼が深く頭を下げた。「電話越しとはいえ見苦しい姿をお見せして申し訳ありませんでした」

 彼は頭を下げ続けているが、その場にいる誰も反応しなかった。松田は気難しい顔で煙草を吸い続け、新井は呑気にスマートフォンを操作している。ぼくは突っ立っているだけだったが、二人と同じように彼に声をかけることができなかった。

「別に気にしていないよ」と新井が言った。

「頭を上げてください。それとこれ…」

 ぼくは小春のスマートフォンを田沼に渡した。彼は受け取ると、ひびの入った画面を見た。

「小春は連れていかれたのですか?」

 ぼくは二人に顔を向けたが、我関せずといった様子だった。

「そのようです」

 田沼は膝から崩れ落ちた。スマートフォンを抱きしめるように握り、静かに泣き出した。

 悲痛な声も伴っていた。田沼に誰も声をかけることができなかった。


「今回の一件は全て私自身に責任があるんです」

 田沼が静かに語り出した。

「以前私はある組の構成員でした。賭博場の元締めや、薬の密売、特殊詐欺の片棒を担いだりと手広く活動をしていましたが、あるとき組の金に手を出してしまったんです」

「何に使ったんだ?」

 壁にもたれていた新井が尋ねた。田沼がちらりと新井に視線を向けたが、すぐに元に戻した。

「つまらないことです」と田沼が答えた。「子分達に派手に振る舞っていかに私がすごい男なのかと誇示することに費やしていました」

「本当につまらないな」と松田が言った。

「虚勢でしかないな」と新井が続いた。

 田沼は言い返す様子もなかった。

「組の金を返すために私は恥をかく覚悟で別の組織に所属していた豊原に相談しました。そしてなんとか金を借りて補填しました。でも…私が組の金に手を出していたことはバレていたのです」

 彼は右手の小指を突き出した。が、そこに小指はなかった。根本から切り落とされていて、田沼は居心地の悪そうな表情を浮かべていた。

「組を破門になり、子分達も私の元を去り、残っていたのは妻の小春と豊原から借りた金だけでした。私は堅気となり、借りた金を返すために必死に働きました。そのあいだ、妻は私娼として豊原の下で働いてもらいました」

「もともと小春さんはそういったお仕事をされていたのですか?」

 ぼくの質問に田沼が顔を向けた。彼の眼に精気はなく、とろんとしていた。そして小さくうなずいた。

「私と小春は歌舞伎町のソープランドで出会い、客とソープ嬢の関係から恋人になり、そして夫婦になりました。私が堅気の人間ではないことを理解し、私が馬鹿なことをしても支えてくれるいい女房です」

「その女房を娼婦として働かせるとは、お前も相当クソだな」

「新井さん!」

 ぼくは新井を睨んだ。

 彼は胸ポケットから赤いマルボロを取り出して口に咥えた。

「いいんです。そちらの方の言うように私は本当にクソな人間です。人並みの幸せを望む資格もありません。世間に対して迷惑をかけたことは事実です。後ろ指をさされても言い返すことはできません。でも、小春は関係ありません。彼女にまで迷惑をかけて私は最低な人間です」

「反省できるだけマシだな」新井が口から煙草の煙を吐き出した。

「それで、これから田沼さんはどうするんだい?」と松田が尋ねた。

 田沼は押し黙ったままでいた。彼は小春のスマートフォンに目を落とし、それからジーンズのポケットに突っ込んだ。

「正直、これからどうするべきなのか私自身も分かりません。豊原の言うとおりに利子の分を払うべきなのか、それとも…」

「警察に相談したほうがいいんじゃないですか? 田沼さんはすでにヤクザから足を洗って一般人なんだから」

「無理だろうな」と新井が言った。

「どうして?」

「警察に相談したところで、過去のヤクザで行っていたことについても調べられる恐れがあるだろ。それに」と新井が煙草を一口吸った。「こいつのプライドが許さないだろ」

 ぼくは田沼を見た。彼は両手を強く握り、張り詰めた表情をしている。拳がぶるぶると震えていた。

「田沼さん…」

 ぼくが声をかけたが、彼は黙ったままだった。そして深く頭を下げると、階段を上がっていった。

「彼、どうするんですかね…」

「さあな」と新井が言った。

「とにかくトラブルはこれでおしまいだ」松田がパイプ椅子から立ち上がり、両手を叩いた。「仕事はまだ残ってるんだ」

「でも、もう交代の時間ですよ」ぼくは壁にかかった時計に指をさした。

「向井はもう帰っていいよ。その傷が癒えるまで休んでいいから」

「俺も帰っていいでしょ?」

「お前はダメだ」松田が新井に向かって言った。「お前は残って仕事をやれ」

「どうしてだよ」

「客の忘れ物をねこばばしていることを俺が知らないとでも思っているのか?」

 新井と松田が言い争っていた。話の終わりが見えなかった。

二人を残してぼくは階段を上がっていった。


ぼくはアパートの近くにある病院に行った。受付で手続きをし、看護師に呼ばれて部屋に入った。白いガウンを着た医者が丸いすに座っていた。眼鏡をかけ、白髪が目立つ初老の男だった。彼は問診票に目を通しながら尋ねてきた。「どうなされましたか」と。

「浮気相手の旦那に見つかってぼこぼこにされました」

 医者が口を大きく開いて笑った。そばに立っていた看護師は軽蔑した視線をぼくに向けていた。

「男前になったね」

「ええ。よりイケメンになれましたよ」

 医者は笑いながら手当をしてくれた。鼻血を拭き落とし、締め付けられた首筋に手をやり、赤く腫れ上がった腹部に手をやった。

「えっと、年齢は」

「二十九」

「ならまだ若いね」と医者が言った。「痛み止めの飲み薬と湿布を出しておくから。はい処置終わり」

 ぼくは頭を下げて部屋を出た。受付で金を支払い、アパートに戻った。ベッドに腰を下ろし、煙草を吸おうと作業着のポケットを探ったがなかった。それから豊原がシガレットケースを奪っていったことを思い出した。

テーブルに巻き煙草の道具一式があったが、手を伸ばすことができなかった。身体を動かすだけで全身に痺れを感じる。病院でもらった痛み止めを水道の水で流し込むとぼくはベッドに倒れ込んだ。


身体の痛みが引くのに三日かかった。その間寝たきりで、食べるにも一苦労だった。四つん這いで台所まで行って置いてあるバナナを口にした。痛み止めを水道の水で飲んだ。腫れた部分の湿布を自分で取り替えてまたベッドに戻った。この単純な動作すら時間をかけてゆっくりと行わいと全身に激痛が走ってしまう。

ベッドに寝転びながら田沼と小春のことについて考えることもあった。休憩所を出たあと、田沼はどうしたのか。豊原たちに連れていかれた小春はまた彼らの娼婦としてこき使われているのだろうか。

いくら考えてみてもぼくにはどうしようもなかった。力も頼るあてもない。ただ無駄に正義感があるだけだ。それが焦燥感を募らせ、苛々とさせる。ぼくにできることはシーツを強く握るだけだった。


次の日の朝、ぼくは仕事に出かけた。通勤途中のコンビニで昼飯とペットボトルの水、それから以前吸っていたセブンスターを購入した。コンビニから出て行くとき、田沼と鉢合わせになった。

「田沼さん、お久しぶりです」

「ホテルの清掃員の方ですね…お名前は…」

「向井です」ぼくは頭を下げた。それから小春について尋ねた。

「女房ですか。彼女は今病院で入院しています」 

 田沼はにっこりとした表情でいった。以前の気の重たそうな様子はどこにも見当たらなかった。

「小春さんを連れ戻すことができたんですか」

 ぼくの質問に「はい」と彼は大きな声で答えた。


 田沼とぼくは近くの公園に移り、ベンチに座った。園内は青々とした樹々に囲まれ、風が吹くと枝が揺れた。五月の日差しを浴びた葉っぱが緑水晶みたいに輝き、時間を忘れさせる。しかし、田沼の目が見ているのは違っていた。彼の視線の先にはブランコで遊ぶ小さな男の子と父親の姿があった。父親が後ろからブランコを押してやり、男の子はしっかりと持ち手の鎖を握っている。笑顔を絶やさず、不安など存在しないかのように。

「それでどうやって小春さんを取り戻したんですか?」

 彼はすぐには答えなかった。周囲の様子を伺い、それから口を開いた。

「向井さんはテレビや新聞の報道をご存知ないのですか?」

「知らないです」とぼくは言った。「テレビを持っていないし、新聞もとっていません。スマホでニュースを観るぐらいですが、この三日間ずっとベッドで横になっていました。動くのも辛くて、スマホもいじることができませんでした」

「そうですか」と田沼が言った。「実を言うと、私にもよく分からないのです」

「分からない? それはどういうことですか」

 田沼は呼吸を整えると、あの日ホテルから出ていったあとのことについて話し始めた。


「皆さんと別れてホテルから出たあと私は商店街の金物店の前に立っていました。そこまでの足取りについては記憶にありません。小春をどうやって取り戻すのか、豊原の言うように利子を払い終えるまで大人しくしていよう、どこかの消費者金融からまた金を借りて…。

 そんなことばかりを考えていたと思います。そして気が付いたら金物店の前に立ち、出てくるときには出刃包丁を持っていました。刃渡り五〇センチほどの大きさで、私はすぐに箱から取り出し、懐に潜ませました。それから自然と浅田組の事務所へと向かって歩いて行ったんです」

 田沼はそこで一旦話を切り上げた。それから煙草を吸っていいかと尋ねてきた。

ぼくはうなずき、コンビニの袋の中からセブンスターを取り出して封を切った。一本を田沼にやり、ライターで火をつけてやった。ぼくも煙草を咥えた。

「浅田組の事務所は駅前のパチンコ屋とサラ金のATMがずらりと並ぶ通りの奥にあります。ドブネズミの色をしたみたいな壁が特徴のビルです。私は近くの電信柱から様子を伺っていました。どうやって乗り込み、小春を取り戻すのか、それを頭の中で延々と考えて続けていました。

素直に申しますと、私は不安でした。ヤクザだったので、討ち入りがどれだけ危険であるかは理解しています。私の手は自然と懐に潜ませた出刃包丁を握っていました。受験生が合否の発表を目にする前にお守りや受験票をぎゅっと握るみたいに」

 田沼は煙草を一口吸った。しかし、それ以後は吸わず人差し指と中指で挟んだままでいた。揺れる煙が風に流されていく。

「私は意を決して通りに出ました。ビルのドアを開け、二階の事務所に続く階段を一段一段と上がって行きました。浅田興業と表札がかかっている扉の前に立ち、ノックをしようとしたのですが、何一つ反応がなかったのです。のぶに手をかけようとしたのですが、扉が勝手に開いたんです。私は室内にゆっくりと足を踏み入れました。目に入ってきたのは三人の死体でした」

「死体?」

 田沼がうなずいた。煙草がフィルターを残して燃え尽きていた。

「部屋に入ってすぐ目の前には革張りのソファーがあって、そこに若い男たちの死体が転がっていました。一人は前屈みに、もう一人はソファーにもたれるように倒れていました。左手側には木製の大きなデスクがあったんですが、そこにも椅子の背にもたれかかって死んでいた男がいました。デスクの脇に白いスーツの上着が木製のコートハンガーにかかっていたのでそいつが豊原だと分かりました」

田沼が眉間に指をさした。

「あいつはここを撃ち抜かれていて、後ろの壁一面が血で染まっていました。バケツのペンキでもぶちまけたみたいに」

 田沼が手を下ろし、膝の上に置いた。

「私は何がなんだか分からず、打ち上げられた魚みたいに口をあわあわさせることしかできませんでした。自然と足が後ろに退がりましたが、何かにぶつかり、ゆっくりと振り向くと目出し帽を被った男が立っていました。黒いつなぎを着て、右手には丸い筒が取り付けてあるピストルを握り、じっと私を見ているのです。私は懐に潜ませた出刃包丁を取り出すこともできず、その場にへこたれてしまいました。

 目出し帽の男がピストルの先端を私に向けた瞬間、殺されると思いました。恐怖で目を閉じ続け、頭の中で小春の名前を何度も叫び、そして謝り続けていたのです。自分の愚かさのせいで彼女を苦しめたことを」

 田沼が手を広げた。そこにはべったりと汗で濡れていた。

「今でもあの男の目を思い出すと恐怖で身が震えます。猟犬が獲物を睨むことで動きを止めるのを昔聞いたことがありますが、男にとって私が獲物でした。しかし、いつまで経っても男が引き金を引く気配もなく、私はうっすらと目を開けてみると彼は小春を連れていたのです。私は立ち上がり、小春を抱きしめました。それから目出し帽の男がつなぎのポケットからシガレットケースを取り出して私に手渡したのです」

「シガレットケース?」

 田沼がうなずいた。

「私にはその意味することが分かりません。彼は私たちを残して、扉を通って、静かに立ち去って行きました。階段をコツコツと音をたてて降りていきました。その靴音が聞こえなくなるまで私は身動きが取れませんでした。十分。いや、五分ぐらいですかね、私は我に返り、室内の惨状をもう一度目にしてから小春を連れてその場を離れました。そして次の日の朝、事務所での一件がテレビや新聞で報道されたのです。私が知っているのはこれだけです」


 話を終えたあと、田沼は吸い殻をポケットの中に入れた。ぼくがもう一本吸わないか、とセブンスターを差し出したが彼は首を振った。

「気持ちだけいただいておきます」

 ぼくはセブンスターを作業服の中に突っ込んだ。

「今後はどうするんですか?」

「女房の容態が安定したら田舎に引っ越す予定です。自然が多い場所なら彼女もゆっくりと過ごせると思うので」

「そうですか」とぼくは言った。「さっき話していたシガレットケースはお持ちですか?」

「それならここにあります」

 田沼が膝元に載せていたリュックサックからシガレットケースを取り出した。ぼくはそれを手に取ってケースの中を開けてみた。手巻き煙草が入っていた。一本取り出し、火をつけた。味で分かった。ゴールデンヴァージニアだった。ケースの凹み具合にも見覚えがあった。

「これぼくが豊原に奪われたシガレットケースです」

 田沼は驚き、「本当ですか?」と聞いてきた。

 ぼくはうなずいた。

「でもどうして…」

 ぼくと田沼はお互いに顔を合わせていたが、沈黙が続いた。


 ホテルに到着し、フロントで松田に会った。

「おはようございます」

「おはよう」と松田が言った。彼は鳥の巣みたいな頭を描きながらがあくびをした。「怪我の具合はどうだ?」

「おかげさまでなんとか動けるようになりました」

「そうか。じゃあ、今日もよろしく頼むぞ」

「はい」

 ぼくは頭を下げ、地下の休憩所に向かった。相変わらず休憩所は薄暗い。無数の配管が剥き出しになっている壁に囲まれ、日差しは一ミリたりとも差し込んでこない。外から隔離されたような異様な雰囲気が漂っていた。

荷物をロッカーの中に置き、隅に立てかけているパイプ椅子を持ち出して座った。テーブルの灰皿を引き寄せ、ぼくは手巻き煙草に火をつけた。スマートフォンを取り出して、三日前の事件、田沼が語ってくれたことについて検索してみた。検索結果がすぐに画面に表示された。ヤクザの事務所が襲われ、組員三人の射殺死体が見つかった内容だった。犯人はまだ見つからず、警察が捜査中と記事に記されている。事件の翌日になると取り上げているメディアの数が少なくなり、その次の日にはどこも取り上げてはいなかった。

スマートフォンをテーブルに置くと、従業員用エレベーターが開いて、新井が出てきた。彼は清掃用台車を押し、交換したシーツを洗濯籠にうつし、ゴミが入った透明のビニール袋を引っ張り出していた。

「おはようございます」

「おす」と新井が言った。彼はじっとぼくの顔を見て、「男前になったな」といじってきた。

「茶化さないでくださいよ。こっちは三日三晩部屋で寝たきりだったんですから」

「怒るなって」

「それより浅田組の事務所が襲われた事件知ってますか?」

「知らねえよ。そんなこと」

 新井はパイプ椅子に座ると胸ポケットからラークの箱を取り出した。煙草を口に咥えて火をつけた。

「出勤する途中に田沼さんと会いました」

「ほう、それで」

「小春さんを連れ戻して、今は病院で治療中だそうです」

「そうか」と新井が言った。彼は煙草の煙を天井に向けて吐き出した。

「それで、あいつからシガレットケースを受け取ったか?」

「なんでそのことを知ってるんですか?」ぼくは巻き煙草を吸うのを止め、新井を見た。

「さあ、なんでだろうな」

 新井はラークを一口吸った。苦い顔をして「不味いな」と言った。そして吸い殻を灰皿に押しつけて消した。

 

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