拾ってくれた女
ほたるとは新宿にある風俗店エーデルワイスで知り合った。彼女は指名ランキングで十位以内の常連で、それは彼女自身の誇りでもあった。反面、この店で働き続けること自体が恥であるとも私に語っていた。
「おにいさんはどうしてあたしを指名したの?」
事後、彼女は私の胸の上に倒れ込み、頬杖をついた。見下ろすような視線だった。室内は薄暗く、彼女の瞳はどこか幼く見える。好奇心を掻き立てられた子供の瞳のようにキラキラとしている。
「店の黒服に勧められたんだ」私は呼吸を整えながら言った。「俺は誰でもよかったんだけどな」
「それってすごく失礼よ」と彼女が言った。「とくにこういったところで働く子たちにとっては」
「それは悪かった」私は彼女を横にやり、床に脱ぎ捨てていたズボンから煙草を取り出した。火をつけて吸った。外から流れてくるシオマラ・アルファロの「モリエンド・カフェ」のイントロを聴きながら片手でリズムをとった。
「気を悪くさせてすまなかった」
機嫌を直したほたるはバスタオルで体を包み、化粧ポーチを手に取って私の隣に座った。ポーチから練り香水の小さなガラス製の容器を取り出し、首筋や耳の裏、それから手首に擦り付けた。甘いバニラの香りだった。
「あたしも吸ってもいい?」
「構わないよ」
私は自前の煙草を彼女にやり、火をつけてやった。ゆっくりと吸い、時間をかけて吐き出した。その間に「モリエンド・カフェ」が終わっていた。次に流れてきたのは古いジャズの曲だったが、名前を思い出すことができなかった。
「それにしてもおにいさん、すごかったね」彼女はゴミ箱から口を縛ったゴムを取り出した。「これだけ大量に出たのを見たのは久しぶりだったわ」
ほたるがゴムを左右に振ると、白濁した私の汁も波を打った。縁日で手に入れた金魚の袋みたいに、彼女は中身をじっと眺めていた。
「まだ時間があるけど、もう一回する?」
「止めとくよ」私は煙草を吸った。「もう弾切れで、みそっかすも出ない」
ほたるはゴムをゴミ箱に放り投げた。それからまた煙草をゆっくり吸い出した。
「おにいさん、仕事は何やってるの?」
「なにも」
「無職ってこと?」
「ああ」と私は言った。「半年前に工場での契約が満了を迎えて仕事を探し続けたんだけど、全く見つからなかった。失業保険も切れて、おまけに彼女にも振られた。まさにどん詰まりだよ」
「まだそんなことが言えるうちは大丈夫よ」
「シェイクスピアだったかな?」
「そうよ」ほたるが驚き、まだ火がついている煙草の先っぽを向けてきた。「どうして知ってるの?」
「大学のときに演劇や映画にはまったんだ。授業も出ずに朝から晩まで関連する動画や本を貪るように見た。印象的な台詞の一つだったから、覚えていたんだ」
「あたしたち、気が合いそう」ほたるがビジネスライクな微笑みを浮かべていた。
「そうかもしれない」私は煙草を灰皿に押し当てて消した。「でも、当分会えそうにはないよ」
「どうして?」
私はその理由を伝えた。単純に金がなく、住む場所もない。持ち物は部屋の隅に置いてあるバックパックだけだ。中身は二、三日分の下着と着替え、それに洗面用具しか入ってない。
「短い旅行にでも出かけるみたい」
「出口の見えない路上生活の始まりさ」
私はベッドから立ち上がった。併設してあるバスルームへ行き、浴槽に浸かった。足を伸ばし、手を上に伸ばした。次にいつ風呂に入れるのかわからない。私はこころゆくまで風呂を味わいたかった。
「ねえ、この後予定はある?」
「段ボールと寝床を探すぐらいだ」と私は言った。
「なら、大久保公園で待っていて。あと二人ほど相手をすれば今日の仕事は終わりだから」
ほたるは吸い殻を灰皿に捨てると、スマホでどこかに電話をかけ始めた。
私は返事をせず、外から流れてくる曲について考えた。ピアノの独奏で、演奏は速弾き。エロル・ガーナーの「ハイ・ワイヤー」が浮かんだ。答え合わせをしたかったが、部屋の電話が鳴った。残り時間が五分だという合図だった。
私は大久保公園でほたるを待った。ガードパイプに腰かけ、足元にバックパックを置き、煙草を吸い続けた。約束の時間はとっくに過ぎている。煙草の灰を落とすと風に流されてどこかへと消えていく。足元に捨てた吸い殻が溜まっていく。煙草は一本だけしか残っていない。
煙草を咥え、私は火をつけようとライターを擦った。小さな火花しか起こらない。ライターをよく見てみると、オイルが切れていた。
私は煙草を元に戻し、ズボンのポケットに両手を突っ込み、じっと反対側に目をやった。植え込みにはずらりと若い女たちが並んでいた。カジュアルな服装やゴスロリファッションに、アニメキャラのコスプレなどに身を包み、彼女たちは口元をマスクで覆い隠し、視線は手に持っているスマホに向けられていた。目の前を通り過ぎていく男たちは舐めるように彼女たちを見ている。足を止めると話をし始めた。長く続くこともあれば短い場合もあった。ゴスロリファッションの女が男の腕を取り、植え込みから立ち去っていった。向かった先にはホテルがずらりと並んである。時刻は午後十一時を過ぎているのに、明るく、そして煩かった。植え込みではまた違う男が女に話しかけている。カジュアルな服装の女だ。
「お前らは薄汚えんだよ!」
背後から突き刺すような怒鳴り声がした。振り返ると、中年の女が腕を振り上げていた。黄色く反射するタスキを肩からかけたウォーキング中の女だ。細い体つきだったが、腹から声を出していた。耳に響くほどの大音量だった。
彼女は私の背後から植え込みに立ち続ける若い女たちに唾を吐きかけた。当然届かない。でも、私の腕にはかかった。
「そんなに自分を売りたいなら、値札でもぶら下げてろ!」
罵声を浴びせた中年の女は西武新宿駅方面へ歩いていった。カジュアルな服装の若い女が中指を立てた。サイの角のように孤独な中指だった。彼女は中年の姿が消えるまで反抗の意思表示を示し続けた。
「お待たせ」
ほたるがやってきた。一時間以上遅刻したが、彼女はわびる様子もない。でもそんなこと気にしなかった。彼女が本当に来たことに驚き、遅刻したことなど些細な問題にしか思わなかった。
「暇だった?」
「いや。全然」私は最後の煙草を取り出した。「面白いものが見れたから良かったよ。それよりライター貸してくれないか?」
ほたるが白いバックからジッポを取り出して、火をつけてくれた。彼女も自分の煙草に火をつけた。ジッポにはとぐろをまいた蛇の刻印が合った。
「面白いものってなに?」
「話すと長くなる」と私は言った。「短く言えば、女同士の争いだよ」
「ふうーん」彼女は興味もなさそうに返事をし、煙草の煙を植え込みの方へ噴き出した。
私たちは区役所通りでタクシーを捕まえて、浅草に向かった。雷門前で降り、仲見世商店街を通った。シャッターの降りた店先には段ボールを敷いて眠るホームレスたちがいた。彼らは世間の目から逃れるように背中を向けている。私もさっきまで彼らの一員になるはずだった。しかし今は違う。雨風を防げる場所へとほたるが案内してくれる。彼女は私の手を取り、狭い路地へと足を踏み入れていく。
「ここよ」
ほたるが案内してくれたのは、単身者用のマンションだった。入り口はオートロック式で、彼女はカードキーをセンサーに近づけた。ガチャリと音がした。私は彼女に続いて中に入った。再びドアがロックする音が背後から聞こえてきた。
私たちはエレベーターに乗り込み、階下を表示したボタンを押した。室内は狭くて、窮屈だった。彼女とより密着する状態になった。彼女の厚い唇が首筋に当たった。彼女の髪が鼻口をくすぐる。目的の階に到着し、彼女は通路の一番奥にある部屋へ私を連れていった。
ほたるがバッグから鍵を取り出そうとすると、部屋が内側から開き、中から若い男が出てきた。半袖のシャツに、白いスラックスというこざっぱりとした服装をしていた。
「デンちゃん……」
彼はほたるを睨みつけた。「「馴れ馴れしく呼ぶな」と一喝し、私を見た。そしてまたほたるに視線を戻した。
「もしかして、彼氏?」と私は訊いた。「なら……」
「元彼だから安心してください」と彼は言った。「私物を取りに来ただけなので」
彼は手に持っているリュックサックを持ち上げた。中身を取り出して見せてくれた。分厚い本が何冊も入っていた。私には縁のない種類の本ばかりで、それがなんの役に立つのか分からなかった。
「貴方が次の彼氏ですか?」と彼は言った。「僕は坂上伝馬といいます」
伝馬が手を差し伸べてきた。私は彼の手を握った。女性の手のように綺麗で、すべすべとしている。私は自己紹介を終えると彼の手を離した。
「彼女は好奇心旺盛です。そしてとても寂しがり屋です」
彼がなにを言っているか分からなかったが、私は礼を言った。
伝馬はスニーカーを履くと、エレベーターに向かって歩いた。ほたるには一瞥もしなかった。
単身者用のマンションでの生活は思ったより快適だった。リビングにキッチン、風呂と便所は併設してあったが、特に困るものではない。ただ壁の薄さだけが気になった。隣室には外国人が住んでいるらしく、夜な夜なベッドを軋ませる音が聞こえてくる。週末になると大音量でクラブミュージックが壁を突き破って伝わってくる。壁を蹴ったり、殴ったりしても音は止まない。直接隣室のドアを叩き、文句を言っても連中はさっぱり理解できない態度でニヤニヤと笑っている。片言の日本語で形だけの謝罪はするが、部屋に戻るとまた耳障りな音楽が流れてきた。
「ここの管理人に文句は言えないのか?」
ほたると酒を飲んでいるとき、私は隣室について話した。
「無理だと思うよ」とほたるは言った。
「どうして?」
「ここは地方出身の女の子たちのためにうちの店が用意した物件なんけど、空き部屋が増えて赤字だったの。特にコロナ禍のころとか。それで五類に移行してから訪日客用に貸し出したんだけど、これがすごく評判が良くてほとんどの部屋が埋まっているの」
「なるほど」と私は言った。「じゃあ、この騒音から抜け出るには別の場所に引っ越しをしないとダメだな」
私はスマホを手に持った。
「なにしてるの?」
「仕事を探してるんだよ。引っ越すためには資金が必要だろ」
「そんなことしなくてもいいじゃん」ほたるが私を抱きしめ、頭を撫でた。「あたしが金を稼ぐから。あんたはここであたしの帰りを待っていればいいの」
ほたるが私の喉を何度も撫でた。猫なら喉を鳴らすが、私にはできない。ため息が自然と漏れでてくる。
「元気を出してよ」ほたるが私の額にキスをした。「明日は仕事が休みだから、今日はいっぱい楽しもう」
彼女は店から持ち帰ってきた道具類をベッドの上に並べた。革鞭にポールギャグ、麻紐、蝋燭、そしてゴムの山。セックス道具の訪問販売員みたいだった。
坂上伝馬の言ったことがよくわかった。
ほたるとの生活を一言で表すとヒモ生活になる。若いころは憧れたものだが、いざ養ってもらう生活を送ってみると退屈すぎる。生活もマンネリ化してきて、どんどん腐っていく気になった。倦怠期を迎えた人妻が不倫に手を染める話を週刊誌のコラムで読んだときは毒づいたものだが、今なら彼女たちの気持ちも理解できる。自己の存在価値が失われていっていることに我慢がならないのだ。妻や母親としての立場だけを求められ、女としての自分を求められない。だから自分を欲してくれる男に身を委ねてしまう。しかし、そのことがばれると夫や家族は妻の問題を激しく叱責する。有名人なら全国民が石を投げるように指をさす。生きづらい世の中と叫ばれているが、生きづらい世の中にしているのは、結局自分たちじゃないのだろうか。周りの人間は自分と同じでなければならないという意識が刷り込まれ、それが……。
「ねえ、なに真剣な顔をしてるの?」
ほたるが訊いてきた。彼女は私の上にのっかかり、頬杖をついていた。相変わらず見下ろすような視線を送ってくる。純粋無垢な子供のような瞳はサファイアみたいに煌めいている。
「ちょっとした考えことだよ」
「難しいことを考えることは止めて、今を楽しもうよ」
ほたるが次を求めてきた。私は拒否することもできず、彼女のペースにずるずると引き摺り込まれていった。しかし、仕方がないのだ。彼女の中は温かく、大蛇のごとくずぶずぶと私を飲み込んでいく。
「さあ、もっと早く動いて!」
ほたるが革鞭で私の尻を強く叩く。渇いた音が室内に響く。私は抗うこともせず、馬のようにいななき、そして果てた。頭では分かっているのに身体が反応してしまう。どうしようもないほどのアホだった。
彼女と身体を重ねることは中毒性の魅惑があったが、重労働でもあった。でも、ほたるを連れて外を歩くと、それはまた違った快感を得ることができる。彼女と腕を組み、仲見世商店街や浅草寺周辺で散歩していると、男たちが私たちに目をやることがあった。眉間に皺を寄せる奴もいた。その気持ちは痛いほど分かる。ほたるは男からしたらとても心躍る姿をしている。肩までのびた黒い髪に、ほっそりとした体つき。尻は小柄だったが、きゅっと引き締まって、ハート型のラインが浮かび上がっている。それにひきかえて私は違った。逆だった。世間の流行と逆行するように汚らしい外見をしていた。無精髭を伸ばし、腕の毛はもちろん足のすね毛まで生えている。生まれ落ちたままの姿で外を出歩き、そして隣には唾を飲み込むほどの女を携えているのだ。いい気分になって当然だった。自然と「モリエンド・カフェ」のメロディーを口にしてしまう。
「どうしたの?」とほたるが訊いた。
「わかったんだよ」と私は言った。「中学の同級生が学年一の女子生徒と一緒に帰宅しているときの気持ちがな」
私はほたるとより密接に近づき、国際通り方面へ足を進めた。でもほたるの足が止まった。組んでいた腕が解けた。私は振り返り、彼女の様子を見た。視線の先には一組の男女が歩いている。女はブロンドの髪をそよがせ、モデルのような風貌だった。
ほたるとはまた違った魅力のある女性と一緒にいたのは坂上伝馬だった。伝馬たちは私たちには気づかず、浅草寺方面へと進み、人混みの中に姿を消していった。それを追うようにほたるも足を動かした。
「ほたる!」
私は彼女に呼びかけたが、足を止めてくれなかった。
その後、雨が降ってきた。冬の冷たい雨だ。私は部屋に戻りほたるを待った。灰皿に吸い殻の山を作り、冷蔵庫の缶ビールは全て飲み干した。外ではまだ雨が降り続けている。傘を持って彼女を探しに行こうと思ったが、どうしても動くことができなかった。伝馬とよろしくやっている姿を目にしたときのことを考えると、怖気ついてしまう。
ドアが開く音がした。ほたるが帰ってきた。ずぶ濡れだった。箱に入れて捨てられた子猫のようにしょげてしまっている。
「おかえり」
私はダイソーで購入したバスタオルを渡したが、彼女は受け取らなかった。薄い布のようなバスタオルが音もなく床に落ちた。
「彼は見つかったのか?」
彼女は黙ったまま首を振った。そして泣き出した。
私は彼女の背中に手を回した。濡れた黒い髪を触ると冷たかった。身体はもっと冷たかった。死体でも抱いているような気分だった。
ほたるはただ泣き続け、私はあやすように彼女を抱きしめるしかできなかった。
ベッドの中で、彼女は伝馬との出会いと別れ経緯を話してくれた。彼も元々客だった。名の知れた私大を卒業し、文筆業で生計を立てようと四苦八苦しているときに、伝馬はほたると知り合った。ほたるは一人前の文筆家にするために彼を養うことにした。彼女はエーデルワイスで男たちに身を売り、伝馬はその間原稿を執筆する。主に戯曲だったそうだ。
「なんでそんなことをするんだ?」と私は訊いた。「俺もそうだが、どうしてお前は一目見ただけの野郎のことを信じれるんだ。もっといい男を見つけたほうがいいだろ」
「デンちゃんはあたしのことを褒めてくれるの」と彼女は言った。「あたしって、なんもないの。頭も悪いし、親にすら相手にされなかった。でも、デンちゃんは違った。あたしを好きだと言ったし、綺麗って言ったわ」
ほたるは自分の髪の毛を触り、愛おしく撫でた。
「あたしの髪はとても魅力的だって。夜の湖みたいに引き寄せられてしまうって。絹のような手触りで、まさに大和撫子の見本だって。あたしのことをいっぱい褒めてくれたの」
その後、ほたるは黙ってしまった。私の胸の中で声を殺して泣いていた。肩を震わして、煌めく瞳は涙でぐちゃぐちゃになっている。大久保公園で中指を突き立てていた女のような強さをほたるは持ち合わせていない。
「なあ、ほたる。俺たちってどんな関係なんだろう」
ほたるは目を赤くしていた。涙がまだ頬に残っている。
「今、俺は養ってもらっている立場だけど、これじゃ駄目な気がするんだ。男の矜持ってのかな、よくわからねんだけど、俺はそろそろ働き始める時期が来たと思っている」
「あんたもここから出ていくの? あたしを放り捨てて、別の女のところに行くの?」
「違う。そうじゃない」私は言った。「どこにも行かない。けど、今の状態を変えないとお前がぶっ壊れる。好きでもない男のために身体を売ることなんてもう止せっていってるんだ」
「じゃあ、生活はどうするの。働いてお金を稼がないとご飯も食べられないのよ」
ほたるは子供でも知っている当然の理屈を口々に言った。
「俺が働く。人手不足の世の中だ。選ばなければなんだってあるさ」
ほたるが何かを口にしようとした。でも、私は彼女の口を封じた。そしてそのまま身体を重ねた。
翌日から私は仕事を探し始めた。ハロワやネット求人経由で履歴書を送った。電柱のポスターや作業現場のフェンスに貼ってある求人募集のポスターの連絡先に電話をして、面接を受けたい旨を伝えた。概ね反応は良かった。ほとんどの企業で面接を受けることになった。
「そう。見つかるといいね」
私は求職活動の結果をほたるに伝えたが、彼女は素っ気ない返事しかしなかった。もっと喜んでくれるかと思ったが、肩透かしを食らった気分だ。
「じゃあ、行ってくるね」ほたるが出勤準備を終えた。「あたし今日は遅くなるから。先に寝ていて」
ほたるが部屋を出て行った。ドアが閉まる音が狭い部屋に響く。
彼女はまだエーデルワイスで働き続けている。私が彼女を養うと言ったのに、立場的にはヒモであった。情けないようだが、仕方がないのだ。
あの日の翌日、ほたるが今の仕事を辞める条件を伝えてきた。それはシンプルなものだ。私が仕事を見つけること。それだけだ。そのために私は朝から夜まで求人を探し、そして面接までこぎつけた。あともう少しで、私は仕事を得ることができる。必ず、そして……。
仕事を得ることはできた。女性用の靴を梱包し発送する作業員としての職だった。私はそのことをほたるに伝えると、「そう」と答えた。
「約束どおり今の仕事を辞めて一緒に暮らそう。稼ぎは少ないかも知れないけど、二人で協力すればなんとかやっていけるよ」
私はほたるの両肩に手を置いた。
彼女が私の手を取り、そっと手を下ろした。そして首を振った。
「ごめん。無理」と彼女は言った。「一緒には行けない」
「どうしてだよ」
「黙ってたんだけど。ときどきデンちゃんと会ってるの。それで、今彼……大変なの」
「なにが大変なんだよ」
「新しい作品を書いてるんだけど、スランプなんだって。全然書けないし、付き合っていた人にも振られて困ってるんだよ。それで……」
「それで、俺とは行けないのか?」
彼女は頷き、か細い声で「ごめん」と言った。
私はそれ以上話し合うことをしなかった。彼女の横を通り過ぎ、自分の荷物をバックパックに詰め込んだ。
部屋を出ていくとき、ほたるが言った。「さようなら」と。
私は返事をしなかった。
梱包の仕事は思った以上にきつく、給料は面接で提示された額よりも少なかった。朝早くから何十箱も段ボールをトラックから積み下ろし、全国各地にある店舗に靴を分けていった。作業中のお喋りも禁止で、休憩時間も短く、ろくに飯も食えなかった。仕事を終える頃には足が棒のようになり、新しく借りた部屋に戻るとすぐに横になった。疲れて風呂にも入れず、私は着の身着のままで寝た。そしてそのまま職場に向かった。
私はときどきほたるにメールをしたが、返事はなかった。電話もかけた。コールオンがするだけで、繋がらなかった。彼女の部屋を訪ねようと思ったが、他の男と一緒にいる姿を目にしたくなかったので、結局行かなかった。
私は必死に金を貯めた。数ヶ月分の節約生活で得た万札を握りしめてエーデルワイスに向かった。入り口で、黒服が数枚の写真を見せてくれた。どれも初めて見る女たちだった。ほたるの写真はなかった。
「ここにほたるって子が在籍してるはずなんだが、その子はフリーじゃないのか?」
「彼女はもう当店にはいません」
「別の店に移ったのか?」
「違います」と黒服が言った。「お客様は彼女と懇意の仲のようですが、ご存知ないのですか?」
「知らないよ」
「彼女は自殺したんですよ」
「自殺? どうして」
「電車に飛び込んだんですよ」と黒服は言った。「それ以上のこと私たちも存じ上げません」
黒服が頭を下げた。
「そうか。ありがとう」
私は黒服に礼を言い、渡された写真を返した。
私は浅草に戻り、立ち飲み屋で飲んだ。隣の席では訪日外国人たちがベラベラと話している。なにを言ってるのか分からないが、イライラとさせる話し方だった。私は河岸を変えて飲み続けた。そこでも静かに飲めなかった。イラつく気持ちを抑えるためにスマホでウェブサーフィンを続けた。どうでもいいサイトばかりが目に入った。そしてニュースサイトに辿り着き、芸能・文化欄を見た。坂上伝馬の記事が載ってあった。それは彼が結婚する内容だ。相手はアイドル上がりの女優で、すでに妊娠半年と書いてあった。写真も掲載されていて、伝馬と女優が肩を並べていた。二人は薬指にはめた指輪をカメラに向け、そして頬を緩ませ、「二人で幸せな家庭を作っていきたいと思います」と述べていた。
私はテーブルを叩いた。強く、何度も、叩いた。
周りにいた客たちが私に目をやっていたが、テーブルを叩き続けた。
「お客さん、ちょっとなにやってるんすか」と店員が言った。「他のお客さんの迷惑ですよ。それ以上やるなら出ていってください」
「そうかい」私はグラスを空にして席を立った。ズボンの中にあった一万円札を渡し、店を出た。
「お客さん、お釣りお釣り」
「いらねえよ、そんなもん!」
私は大声で叫んだ。
私は店を出た後も、部屋に戻ってからも考え続けた。「一緒に行けない」を聞き入れないで、強引にでも手を引っ張ってゆくべきだった。ほたるが求めていたのは、彼女自身を肯定してくれる男だった。私はそれをしたのだろうか。思い出してもそんな記憶はなかった。かけた言葉はどうでもいいようなものばかりだ。私には生きる値打ちも価値もなかった。死ぬべきなのは私だった。私は拳を作り、自分の頭を殴った。何度も殴り続けた。そしてワインの封を開け、浴びるように飲んだ。
部屋の外から馬鹿騒ぎする声が聞こえてきた。訪日外国人の声だった。日本人の男女の笑い声も聞こえてくる。いつまでたっても止まない。私は窓を開けて、大声で怒鳴った。「馬鹿野郎! うっせんだよ! ぶっ殺すぞ!」
私はワインボトルを窓から投げた。割れた音がした。それでも馬鹿騒ぎの声は止まなかった。
夜がどんどん濃くなっていく。私にできることなどなにもなかった。
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