宮沢賢治のお話し

「雨ニモマケズ」の宮沢賢治さんのお話しです。


偉い人よりも、人のために働く人になりたかった賢治。 賢治は岩手の花巻の農業高校で、教師をやっていた時期があるのですが、答案用紙に何も書かなくとも、生徒に絶対に0点をつけなかった。 名前だけ書いても20点をあげていました。 たとえ何もできなくたって、0点の存在などこの世にいないからです。 せっかくついた安定職である教師を辞めて、農民になろうとしたときも、思いとどまらせようとした校長に対して、賢治はこう言いました。 「私は、もっと土にまみれて働きたいのです。教師をして、生徒たちを立派な農民に育てるのも大切な仕事です。 でも、それだけでは、本当の農民の苦しみはわかりません。 雨が降れば大水でたんぼを流され、日でりが続けば、稲の枯れるのをじっと見ているよりほかに、何もできない人たち。 その人たちのことを思うと、のんびり教師などしていられないのです。 その人たちと一緒になって働き、その人たちのために、いますぐ役に立ちたいのです」 農業学校に通う生徒たちの多くが、卒業後、大変だからと農業をせずに役所に勤めたりするのを見て、賢治は「これではいけない。新しい農村社会をつくろう」と意を決したのです。
「雨ニモマケズ」の現代語をご紹介します。

雨にも負けず 風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けず
丈夫な体を持ち
欲はなく決して怒らず
いつも静かに笑っている
1日に玄米4合と味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを自分を勘定に入れず
よく見聞きし 分かり そして忘れず
野原の林の下の蔭の
小さな萱ぶきの小屋にいて
東に病気の子供あれば 行って看病してやり
西に疲れた母あれば
行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば
行って怖がらなくてもいいと言い
北に喧嘩や訴訟があれば
つまらないからやめろと言い
日照りのときは涙を流し
寒さの夏はおろおろ歩き
皆にデクノボーと呼ばれ
ほめられもせず
苦にもされず
そういうものに私はなりたい

この有名な詩は、賢治さんが亡くなった後、賢治さんの手帳に書かれていたものをトランクの中から発見されたもので、発表されるためにつくられたものではありません。 賢治さんの理想の生き方だったのでしょう。 誰かが見ているからとか、有名になりたいとか、損得とかじゃなく、 純粋に、誰かのために優しく生きる生き方。 そういうものに私もなりたい。

あの大谷翔平も花巻でしたね!
そういう風土があるのかもしれないですね。
ご当地スマホ倶楽部
恒川年昭

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