是雄封鬼録−56
高橋克彦
憤怒鬼 56
多くの馬の嘶きや蹄の音が響き渡ったのは昼過ぎのことだった。
「春風様にござります。芙蓉たちも一緒」
蔀戸を上げて見やった温史は喜んだ。
「こっちの様子が気になったか」
是雄は苦笑しつつ舌打ちした。気持は嬉しいが兵などなんの助けにもならない。
「淡麻呂がまたまた妙な夢を」
真っ先に駆け込んで来た甲子丸が皆の無事を確かめつつ口にした。
「真昼の如く眩しい場所にて御主人様と鬼めが善悪の裁きを受けていたとか」
甲子丸に皆は仰天した。
その策の是非を論じていたのは、つい一刻前のことでしかない。淡麻呂はそれを昨夜のうちに見ていたのである。
「淡麻呂の頭の中は一体どないになっておるんじゃろうのぅ。さっきまで皆であれこれ言い合っていたのが無駄となったわ」
髑髏鬼に道隆も苦笑いで同意した。和議の策に断固反対していたのは道隆である。
「と言うことは入鹿の方も神との対面を望んでいるわけだな。面白し」
是雄はくすくすと笑った。
「危うい羽目にならんかの。あやつは相当に神を恨んでおる。近付けたを幸いに襲いかからんとも限らんぞ」
「鬼など神の敵にはあらず」
是雄は髑髏鬼の心配を退けて、
「淡麻呂が見たと言うなら、もはや面倒な腹の探り合いなど無用。現れしときは即座に話を持ちかける。向こうも頷こう」
「そないに容易いことじゃあるまい。名乗りを挙げて攻めてくる敵とは思えぬ。もし、ここにおる何人かがやられても是雄はそれを許して和議に持ち込む気か」
「和議の策はそなたが先に口にしたこと」
髑髏鬼に是雄はくすりと笑った。
「万が一、芙蓉や淡麻呂が殺されでもすりゃ、断じて和議など。儂が言うたのは、そうなる前に使者の役目を果たそうと」
なるほど、と是雄は大きく頷いて、
「淡麻呂が見た夢であれば、神との対面まで少なくとも、おればかりは死なぬ理屈。皆を中に入れてもう一度社に結界を張り巡らせろ。おれ一人が外で敵の到来を待つ」
道隆や夜叉丸に命じた。
「案ずるな。霊体となってのこと。滅多なことにはなるまい」
不安顔の皆に是雄は笑顔で請け合った。
「さてと…どうなるか」
是雄は丹内山の大岩の上に胡座をかいて憤怒鬼の到来を待ち構えていた。と言っても霊体なので尻の感触はない。敵の目に付きやすいようにしているだけだ。
いきなり、
大岩が巨大な炎に包まれた。途轍もなく激しい勢いである。是雄は真下に見える社に目を動かした。変わった様子は微塵も観られない。是雄は安堵のうなずきをした。
「貴様❗なにを企んでおる」
激しい炎の中から憤怒鬼が割って出て是雄を巨大な目で睨み付けた。伴大納言も側に従っている。睨みが的中した是雄の頬に思わず小さな笑いが浮かんだ。
「もはや物部とて我が敵。この里すべてを灰にしてやろう。見ておれ」
憤怒鬼は頬を膨らませて炎を噴き出した。めらめらと大岩の周りの樹々が燃え立つ。
是雄は腕を大きく振って剣を取り出すと、剣先を燃え盛る樹木に向けて炎を断ち切る如く思いきり横に払った。たちまちにして炎が鎮火した。
大納言は仰天の顔で尻込みした。
「これぞ須佐之男命が天より賜りし草薙剣。もはや姑息な術など通じぬと思え」
と聞いて憤怒鬼は目を丸くした。
「この大岩の真下にお眠りいたすは封じられた悪神などには非ず。ご自身でお望み召されて陸奥の守りとなられた須佐之男命さまにあらせられるぞ。うぬら如きが束となっても適う相手には非ず。それを篤と承知の上でやり合うと申すなら、もはや同情はせぬ。即刻に地獄へ追い払ってやろう」
口にしながら是雄自身が驚いていた。たった今までは思ってもいなかったことである。是雄の口を借りた神の言葉であろう。
憤怒鬼に明らかな動揺が見られた。
「来よ。是雄と共に我が前に来よ」
是雄の口からまた神の声が出た。
憤怒鬼は脅えた顔をしつつ、抗うように続けざま激しい炎を噴き出した。が、その火はたちまちにして萎んで消滅する。
「いずれ頼りとなる者と見ていたに、かような小者に誑かされるとは」
是雄の険しい目は大納言に向けられた。射すくめられて大納言は震えた。
「冥府にて千年も身を縮めているがよい」
その言葉と同時に大納言は空高く飛ばされた。悲鳴がどんどん小さくなり消えた。
「手前のしたことには非ず」
是雄に憤怒鬼も無言でうなずいた。
「悪いのは中臣鎌足。しかと承知」
是雄は深々と頭を下げて、
「首を切り落とされ、お体の方は野晒しとされ腐り果てるまで捨て置かれたとか。お父上の蝦夷どのもそれを聞かされ、ご自害召された由。無念は重々にお察し申し上げる。なれど、国の栄えは第一に民の支えがあってこそのもの。責めの一端は、その者たちを民草と蔑んだご自身にもあると思い召され」
「愚かな者らに政ができると言うか」
憤怒鬼は睨み付けた。
「生きる喜びがなんであるか、一番に知っておるのは貧しき民らにござる。政を執る側にその思いなくして、美しく優しき国など作れるはずもなし。内裏が目差していた国とは、己れらにとって楽な国でしかありますまい。民らはそのための道具に過ぎぬ」
憤怒鬼はぎりぎりと歯噛みした。
もうよかろう、という声が耳に響いた。それは憤怒鬼も同様だったらしく、恐れの目で辺りを見回した。
その瞬間、
是雄たちは眩い部屋に運ばれていた。
おおっ、と先に声を発したのは憤怒鬼だった。いや、もはや首だけの鬼ではない。凛々しい顔立ちの男が是雄と並んでいる。これが入鹿本来の姿であろう。入鹿は喜んで床を踏み鳴らした。
是雄からも思わず笑みが洩れた。
「おれの…指が動く」
入鹿は掌を是雄にかざして何度となく指を握っては開いた。入鹿は泣いていた。
是雄は幸福な思いでそれにうなずいた。