「分かる」ことは「分からなくなる」ことかもしれない
僕はまだ世界についてほんのちょっとも分かっていない高校生ですが、こんな僕でも常日頃からニュースやSNSを見て世界を少しでも知ろうとすることがあります。ウクライナ侵攻とか入管法改正とかの話は結構難しいですが、僕なりに考察を立てて世界をより良くしていくためにはどうしたらよいかを考えたりしています。そんな生活を何ヶ月か続けてきて最近になってなんとなく気づいたことがあります。それは世界に溢れる様々な問題は、知れば知るほど複雑で簡単には解決できないものであるということです。つまり、「分かろう」とすればするほど「分からなく」なっていくということです。そこで一つ例を挙げてみましょう。今はもう少ないですが、昔はよく小学校で鶏などの動物を飼っていたそうです。そこでよく話題になるのが、飼った鶏を食べるか放すかという問題です。数年前の私は圧倒的に食べる派で、理由をこのように即答していました。どうせいつか鶏は死ぬんだから一生懸命育てた私たちに食べてもらう方が幸せであろうと。この意見の正当性はよく分かりませんが、大事なのはそこではなく、数年前の私は迷う余地もなく「食べる」という意見を貫いていたということです。しかし、今の私は正直この議題にはっきりと意見を言える自信がありません。なぜなら、経験を積んでいくごとに「放す派」の人の意見(たとえば、自分たちで大切に育てた鶏を食べるのは心が痛む、など)も十分に納得できるからです。このような、簡単に思えていたことが思考を深めていくにつれて複雑になっていき簡単に答えを出せなくなっていくことこそが成長なのではないかと私は考えます。他の例で考えると現在のウクライナ侵攻についても、世論では「プーチンが全部悪い」というような考えをよく見かけます。しかし、そうではなく「プーチンも悪いけどこうなってしまった元の原因はなんなのだろうか」と考えていくことで私たちの暮らしは幸せになっていくのではと思うのです。ひとりひとりが考えていけば世界は平和になると私は信じています。現代の私たちの暮らしはどんどん複雑化していき、AIの猛追によっていつ自分の仕事が奪われるか分からない状態です。そんな時代だからこそ、安直に考えて答えを出すことよりも、合ってるか間違っているかではなく自分たちの未来のために考えるというその行為にこそ価値があるのだと私は信じています。
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